著者 柴田錬三郎 毒婦伝奇 目 次  遊女松笠  千人 於梅《おうめ》  勇婦桜子  側妾《そばめ》三代・お万篇  側妾《そばめ》三代・おもん篇  側妾《そばめ》三代・お市篇  四谷怪談・お岩  妲己の於百  高橋お伝  明治一代女  解説  遊女松笠  一  世間は、大晦日《おおみそか》であわただしい。  ここ、——吉原の廓内《くるわうち》も、例外ではなかった。但《ただ》し、茶屋《ちゃや》の座敷だけは、流石《さすが》に、客の姿は、見当たらぬ。  大晦日に、吉原に遊びに来る客といえば、借金で首がまわらなくなって、店へ戻《もど》れぬ男か、師走《しわす》をひとかせぎした盗賊か、|節季仕舞い《せっきじま》をして、年が明けてから東海道を帰ることにした上方の商人《あきんど》か、すこしばかり世をすねた変わり者、ということになる。  そんな客が、多いわけがない。  どこの茶屋も、この日ばかりは、客を歓迎しないのであった。  揚屋町《あげやまち》の尾張屋の二階裏部屋にごろ寝している男も、最も歓迎されざる客であった。  柄井八右衛門《からいやえもん》、という。  御家人《ごけにん》であった。俳名を川柳《せんりゅう》といい、前句附《まえくづけ》の点者《てんじゃ》として、名があったが、好んで、狂態の句ばかり取っているうちに、いまでは世間では、ふざけた句を、川柳と呼ぶようになっていた。  それまでは、俳句は、かなり高尚《こうしょう》なものであった。  柄井八右衛門は、それを、ぐっと、ひき下げて、庶民の人情世態《にんじょうせたい》を叙《じょ》すものにしてみせたのである。世話事、買色、下女、居候《いそうろう》など、主題を卑俗に置いて、皮肉と滑稽をないまぜて、「川柳」というひとつのジャンルをつくったのである。  吉原があかるくなれば内が闇  仲人は雨までほめてかへるなり  売家を唐様《からよう》で書く三代目  川柳八右衛門の筆にかかれば、あらゆる現象が、小気味よく諷刺《ふうし》される。  当人は、世相を視ているだけでは、金の儲け様もなく、大晦日には、吉原の片隅にころがり込んで、息をひそめているよりほかにすべのない貧乏ぐらしであった。 「川柳さん、ここですかい?」  声をかけて、主人の喜兵衛が、入って来た。痩《や》せて、小柄で、貧相な男である。  八右衛門は、やおら、起き上がって、無精髭《ぶしょうひげ》の顔に、間のびたあくびをさせた。八右衛門も、見ばえのしない男である。 「あたしはね、川柳さん、当節の廓《くるわ》が、だんだん、気にくわなくなった。お前さんも、そうお思いでしょうな?」  喜兵衛は、大晦日の寄合《よりあい》で、何か面白くないことがあったとみえて、いきなり、そう言った。  八右衛門は、黙って、喜兵衛の顔を瞶《みつ》めた。 「むかしは、廓通《くるわがよ》い、と言ったのが、いまは、女郎買い、だ。吉原は、粋《いき》な遊びをするところという心意気は、どこにもありやしない。女郎を抱いて寝るだけの目的で、通って来るのは、あまりなさけない。そうは、思いませんかね」  高尾|太夫《たゆう》が、松の位を誇ったのは、遠いむかしのことになっていた。  その時代には、この揚屋町にも、揚屋が十五軒、茶屋が五十軒、ずらりと檐《のき》をつらねて、太夫の揚屋入りには、二階窓をひらき、紀伊国屋文左衛門《きのくにやぶんざえもん》とか奈良屋茂左衛門《ならやもざえもん》という大尽《だいじん》は、小判や小粒を、そこから投げたものである。  いまは、揚屋として残っているのは、この尾張屋一軒のみであった。  客は、揚屋町、仲之町の揚屋や茶屋で、太夫以下数十人をはべらせて、遊ぶことがばからしくなり、まっすぐに、女郎屋へあがるようになってしまったのである。 「むかしは、吉原で遊ぶ、といえば、左様、松の位の太夫を呼ぶには、一月も前から、入札していたものですよ。ただの売物買物、金さえだせば、埒《らち》の明く、というものじゃありませんでしたね。やっと、その日になって、揚屋で待っていると、太夫は、昼も八つすぎに、しずしずとやって来るが、勿論《もちろん》、その日、枕を交《かわ》すわけじゃない。ものの半|刻《とき》も、太夫をそばに座らせていると、客の方から、座を立って、にぎやかに送り出される。初会とは、そういうものでしたよ。二度、三度と、親しくなった頃、太夫へ匹田鹿子《ひつたかのこ》二反、紅梅の裏|一疋《いっぴき》、または紅白の縮緬《ちりめん》五反、金子なら三十両、そのほか、太鼓女郎、禿《かむろ》、遣手婆《やりてばばあ》までに、四十両の心付け——これが、茶屋の勘定《かんじょう》のほかの痛事《いたごと》ですわな。それでこそ、大尽とあがめられたものですて」 「附人への心付けが四十両か。百五十石高のさむらいの一年の収入高だな」  八右衛門は、苦笑した。 「松の位の太夫を買うからには、千両を用意するのが通人と申すものじゃありませんかねえ。……ところが、いまはどうです。十両使う客もありやしないやね」 「千両積まれても、首をたてに振らぬ太夫もいなくなったからね」  元禄享保《げんろくきょうほう》の豪興《ごうきょう》壮遊が、消えてしまって、初会から女郎を抱かねば承知しなくなったのも、セチがらい時代のせいで、これは、やむを得ないことだった。  いまや、女郎が客を振る、などということは、滅多《めった》にきかぬ。 「尾張屋——」  八右衛門は、笑い乍《なが》ら、 「どうやら、たった一軒のこったこの揚屋も、店を閉じなければならなくなったようだね?」  と、言い当てた。  仲之町の茶屋でさえ、しだいに数が減《へ》って来ている時世であった。客が鷹揚《おうよう》な気風をすててもっぱら、牀《とこ》急ぎをするようになれば、女郎も卑しいものになってしまい、いまでは、二|朱《しゆ》の張店《はりみせ》が、大流行《おおばやり》で、客は、あがって来るや、さっさと牀入りして、ことを済ませて、また、さっさと帰ってしまうあんばいであった。酒も飲まぬし、三味線も鳴らさないのであった。  太夫とか格子《こうし》という花魁《おいらん》はいなくなり、散茶女郎《さんちゃじょろう》、梅茶女郎《ばいちゃじょろう》といい、その中から、呼出し、昼三、附廻しなどというのが上等とされている吉原となっていた。呼出しが最高で、昼夜買いきって二両一分である。  その呼出し女郎を買うことさえ、ぜいたくに思われ、せいぜい大大名の留守居《るすい》か、御用達の町人ぐらいが、上客となっているのである。  二 「時よ時節だ。しかたがない。店を閉じますよ。川柳さんにも、お気の毒だが……、来年は、別の家で年越しして頂くことになりますよ」  喜兵衛が、そう言いすてて、立ち上がろうとした。  すると、 「ちょっと、待った」  八右衛門が、とどめた。 「なんですね?」 「どうせ、最後の揚屋が、店を閉じるのだ。ひとつ、元禄のむかしを思わせる、豪勢《ごうせい》な行事を、ひとつ、やってみては、どうだろうな?」 「どんな趣向ですね?」 「チト金がかかるが、話の次第では、やってみるかな?」 「うかがいましょう」  喜兵衛は、また、八右衛門の前に坐った。 「むかし、高尾太夫が、威儀《いぎ》をつくろうて、仲之町を通って、揚屋入りをした時のことを、お前さんはきいているかね?」 「きいて居りますとも。そりゃもう、大したもので、お大名の奥方も及ばぬほどの、威勢だったそうで……、顔をまっすぐに立てて、傍目《わきめ》なんかつかうものじゃない、奈良茂《ならも》が、仲之町を通る高尾を、にっこりさせる者がいたら、十両呉れよう、と賭けたことがあるそうですからね」  吉原ができた頃は、遊女の揚屋入りは、六尺という下男に背負《せお》われて行ったものであった。子供が親爺におんぶされるように両足を前へ出すのは、はしたないことなので、下男が後で組み合せた両手の上へ、長小袖でくるんだ両膝をのせて、行儀よく坐《すわ》り、右手の三つ指を、かるく肩にあてて、上半身をまっすぐに立てた張肱《はりひじ》になり、遊んでいる左手では、衣紋《えもん》をつくろったり、髱《たぼ》をおさえたりしていたものである。  それに、うしろから、長柄の傘がさしかけられている。  吉原は埋立地なので、雨でも降ると、大層なぬかるみとなるので、そういう道中になったのである。  やがて、背負われて行くのが、乗物にかわって、いまでは、ひやかし連中には、花魁の顔がおがめなくなっている。 「尾張屋。……高尾にまさる太夫をつくりあげて、途方もなく派手な道中をやらせてみてはどうだろう。駕籠《かご》ではなく、太夫に歩かせるのだ。行列を思いきって、豪勢なものにしてくれるのだ」  川柳八右衛門は、微笑し乍ら、言った。 「そりゃ、面白そうだ。しかし、肝心の太夫にしたてる女なんざ、もうこの吉原には、一人も居りませんぜ。散茶、梅茶の中に、魂を奪われるほどの品格をそなえた女郎は、一人もいやしない。宝暦《ほうれき》の玉屋の花紫《はなむらさき》を限りとして、松の位は、あとを断《た》ちましたよ」 「私には、心当りがある」 「ほう……、どこにいますね?」 「この吉原には、いない。私が、下谷の尼寺に預けている娘を、つれて来る。礼儀作法から、読み書き、茶の湯、諸芸を仕込《しこ》んでいる最中なのだ。これは、立派な太夫になる」 「どこから、いったい、つれて来なすった?」 「木曾《きそ》の山中から、なんとなく、つれて来たのだよ。まだ十三だったが……、早いもので、もう五年経った。尼寺に預けっぱなしにして、会いにも行っていないが、屹度《きつと》美しゅう育っているはずだ。……私に、まかせてもらえまいか」 「よろしいおまかせしましょう。善は急げだ。……明後日——二日に、どうですね?」 「きまった!」  八右衛門と喜兵衛は、威勢よく手を合わせた。  三 「元日《がんじつ》や、さて吉原は静かなり」  その句が示す通り、流石に、元日に、女郎買いをしようとする者はなく、廓内《くるわうち》は、ひっそりとして、人影もない。  その元日に、廓の若者百人が、瓦版《かわらぱん》売りよろしく、ひとかかえ、刷り物を小脇にして、大門《おおもん》をとび出して行った。  その大門口には、制札《せいさつ》が樹ててある。それは、元和三年、庄司甚右衛門が、元吉原を創設した時に、幕府から賜《たまわ》った五ヵ条の条目にならべて、吉原のみの禁令を記したものであった。  医師以外の乗物や槍|薙刀《なぎなた》の持込みを禁じたり、遊女の町売〔廓外営業〕の取締り、客の流連《いつづけ》の制限などであった。  五十間道が尽きて、大門に接するそこを、高札場と呼んで、名所のひとつになっていた。この高札場に、朝はやく、新しい高札が、立てられてあった。  おとくい様方へお知らせ申上げ候  このたび、廓内の韻致《いんち》を、げんろく〔元禄〕のむかしにかえしたく存じ、高尾にまさる傾城《けいせい》を、千人の内より百人選び、百人すぐって十人のこし、十人の中より一人ひろいとり、諸芸、座つき、盃、張り、口舌ひとつ欠けたることなきよう、太夫職に備え居りしところ、どうやら、お目見の儀相成り申し候故、松の内、二日三日四日五日、江戸町より揚屋町まで道中いたさせ申すべく、何卒《なにとぞ》御高覧のほど願い上げ奉り候 かしく  吉原揚屋茶屋|肝煎《きもいり》  そう記してあった。  なお、廓の若者がひっかかえて、江戸市中へばらまいた刷り物には、これと同じ文章のほかに、  なお、道中のさなか、太夫の目をひくおもしろき趣向など、お願い申上げ候、太夫が、あまりのおもしろさに、微笑をつくりし節は、そのお方様を、揚屋にお招き申し、一夜の枕を交すこと、かたくお約束申上げ候  と、書き添《そ》えてあった。  川柳八右衛門が、思いついたこの催しは、たちまち、元日の江戸市中の大評判になった。  高尾太夫が伝説化して来た当節、それにまさる太夫をつくりあげて、これに、華やかな道中をさせる、というのである。  お祭りさわぎを好む江戸の庶民たちにとって、これほど恰好の話題はなかった。  吉原の一年のにぎわいは、元日を越えて、二日からはじまるのが、慣例であった。  二日は、夜明けとともに、まだ、たそや行燈《あんどん》の光も消えぬうちに、若湯《わかゆ》を知らせる若衆の勇ましい声があがる。  仲之町の茶屋には、新しい紺暖簾《こんのれん》、青簾《あおすだれ》がかかげられ、檐《のき》には、鏡餅《かがみもち》、飾海老《かざりえび》、竹村伊勢、松本和泉の菓子蒸籠《かしせいろう》が、山と積まれる。  廓内の女芸妓が、今日を弾き初めの三味線をかかえて、新調の紋服もおそろいで、五人六人と組をなして、戸毎に廻りはじめる頃には、路上には、大黒《だいこく》舞いやら雙六《すごろく》、宝船、羊羹《ようかん》、白酒、蛤《はまぐり》売りが、どっとあふれる。  初買いの客は、もう、三枚肩の駕籠で、掛声勇ましく、日本堤を、つっ走って来ている。  これが、例年の二日朝の風景なのだが、今年は、思いもかけぬ催しに、夜が明けた時刻には、もう、江戸町から揚屋町までの往還は、夥《おびただ》しい人波で、彼処此処《あちこち》で、場所取りの小ぜり合いまではじまっていた。  このぶんでは、太夫が道中する九つ〔午後零時〕までには、圧死人も出るのではなかろうか、と心配されたくらいである。  芸妓たちは、どこかへ逃げ込んでしまったし、物売り連中も、声をあげるいとまもなく、裏路《うらみち》へ押し出されてしまった。  吉原最大の景物の、夏の俄踊《にわかおど》りにも、これほどの人垣は見られぬことだった。  やがて——九つ。  若者たちが、拍子木を打って、太夫の出現を前ぶれして、人垣を後退させた。  その人垣の中に、川柳八右衛門は、前後左右に押され乍ら、立っていた。  ジャン  ジャン  鳶《とび》の者が十人五列にならんで、金棒《かなぼう》を鳴らして、先駆して来るのが見えると、群衆は、どっと、どよめいた。  そのあとに、箱堤燈《はこぢょうちん》が、かかげられている。つづいて、立兵庫、島田髷《しまだまげ》の散茶女郎が、そろいの緋鹿の子衣装に、金襴《きんらん》の刺繍《ししゅう》を施《ほどこ》した俎帯《まないたおび》を胸高にむすんで、およそ、二十人、しずしずと進んで来た。  そして、その次が、問題の謎の太夫であった。まさしく、肝煎の口上には、いささかの誇張もなかったことを、見物人は、合点した。  太夫が、目の前に来た時、どよめきはかえって、しずまった。すべての男たちが、息をのんだのである。  玳瑁《たいまい》の櫛《くし》、珊瑚《さんご》の笄《こうがい》を数十本も飾った立兵庫の下の白い顔は、非一点うちどころのない美しさであった。気品も匂うた。  白綸子《しろりんず》三枚がさねの小袖の清楚《せいそ》も、その気品を増す効果があり、さらに、羽織った牡丹《ぼたん》に唐獅子《からじし》のけんらん豪華な金銀五彩の刺繍《さし》模様の裲襠《うちかけ》も、肌の美しさを一段と映えさせた。  群衆をして、きもをつぶさせたのは、その美しさだけではなかった。  そのふしぎな歩きかたであった。  まっ白な素足に黒塗《くろぬり》三つ歯の高下駄をはき、右手をふところに、左手を、かたわらの禿《かむろ》の肩に置いて、眼眸《まなざし》をまっすぐに、宙に据《す》えて、進むのであったが、ただ、尋常に足を前に出すのではなかった。  まず左足をふみ出すと、その位置を中心にして、左方へ半弧の線を描きつつ、踵《かかと》だけをおろし、次に、下駄ぜんたいを地につける。次に右足を出して、同じ弧線《こせん》を描いて、進むのであった。  片足が弧線を描く瞬間、緋縮緬の湯文字の裾がすこし乱れて、足くびが、ちらとのぞいた。それが、なんとも名状しがたい艶冶《えんや》な色っぽさであった。  三枚歯の高下駄も、八文字の踏みかたも、川柳八右衛門の考案であった。  食いつくようにそのあゆみかたを眺め入る男たちは、おそらく、今日のうちに、女を抱かずにはいられない欲情を、そそられている。  川柳八右衛門は、ゆっくりと視線をまわして、群衆のひとつひとつの顔を観察し乍ら、冷たい薄ら笑いを、口辺に刷《は》いた。  四  五年前のことである。  川柳八右衛門は、木曾街道を歩いていた。年に一度、八右衛門は、ぶらりと旅に出る。帰府した時には、ふところ手帖には、夥しい奇警《きけい》の観察による狂句が、記しとめられてあった。しかし、土産は、それだけではなかった。可愛い女の子を、一人か二人連れていたのである。  川柳八右衛門が、吉原で、一文なしで悠々《ゆうゆう》と年越しできる理由も、そこらあたりにあったのである。  もとより、御家人の矜持《きょうじ》がある。  女衒《ぜげん》にまでなり下がったわけではなかった。  ただ、諸国をぶらぶら歩いているうちに、極貧の山屋に、みがけば玲瓏《れいろう》たる玉となる少女を発見すると、つい、江戸へ連れてきたくなるのであった。四国の高知の果てを巡っている時、ふと、その気になって、両親にたのんでみると、二両で手ばなす、という返辞《へんじ》に、路銀《ろぎん》を、江戸へ辿りつける分だけのこし、五両あまり置いて、その少女をともない、吉原で散茶にしたてたのが、はじまりであった。  貧乏御家人が、旅に出るには、かなりの工面を要したのであるが、それからは、吉原の年寄たちが、路銀を贈ってくれるようになった。勿論、旅毎に、みがけば玉になる少女をともなう、という約束をしたわけであった。  気まぐれな旅であったし、必ず発見できるというものではなかったし、年寄たちも、他の女衒たちと交す契約《けいやく》を、八右衛門に押しつけるつもりは、毛頭なかった。  ただ、八右衛門がつれて来るのが、みがけば必ず玉になる——いわば、花魁になるために生まれて来た少女だったので、ひそかな期待は大きかったのである。  年寄たちが、路銀をはずんだ所以《ゆえん》である。八右衛門は、謝礼を取らなかったからである。御家人の矜持であった。  八右衛門は、三留野《みどの》から野尻にいたるかげ路で、足をくじいた。  木曽路は、みな山の中である。  名にしおう深山|幽谷《ゆうこく》の、木曾川沿いに、岨《そば》づたいに行くかげ路なので、危険きわまりない。往往にして、路は、さし出た巨岩でさえぎられ、木を伐り渡してならべ、藤かずらでからんだ桟橋《かけはし》になっている。  足をくじいては、とても、一日に三里と進めるものではない。  八右衛門は、やっと、野尻まで辿《たど》りついて、まだ陽は空にあったが、二日ばかり、休息することにした。といって、旅籠《はたご》があるわけでもなかったので、駅中にある妙覚寺という古刹《こさつ》に泊めてもらうことにした。  囲炉裏端《いろりばた》で、枯木のような住職と話を交しているうちに、八右衛門に、ふと、霊感のような予感が起った。  谷中が狭《せま》いために、田畑が稀《まれ》で、村里はすくなく、まれに見かける山中の人家は、みな板葺きで、石を圧石《おもし》にしている、いかにもみすぼらしいたたずまいを、ずっと眺めて来た八右衛門は、この木曾山中にこそ、みがけば玲瓏たる玉になる少女がいるに相違なかろうに、と思ったことだった。  住職と無駄話をしているうちに、不意に、その少女が、すぐ近くにいるような予感が起ったのである。  八右衛門は、何気ないふりで、座を立った。  境内をぬけ出て、しばらく、道を辿っていくうちに、彼方《かなた》にこんもりと、わだかまった小さな森を見出した。月がおくれて一時に咲いた桃や紅梅を配したその落葉松の景色に、八右衛門は、なんとなく神秘《くしび》なものを感じた。  畑もどりの腰のまがった老婆を呼びとめて、尋ねると、あそこには天狗《てんぐ》の祠《ほこら》がある、という返辞であった。  それをきくと、八右衛門は、思わずにやりとした。  実は、俳諧《はいかい》仲間などが夢にも知らぬことであったが、八右衛門は、背中に、天狗の面を彫っていたのである。若気のあやまちではあったが、彫ったのが、江戸で一二を称《うた》われる名人で、自慢にしてもはずかしくない刺青《ほりもの》だったのである。 「天狗の祠があるなら、お礼詣りをせずばなるまい」  塗《ぬ》りの剥《は》げ落ちた鳥居をくぐると、檜皮葺《ひわだぶき》の古びた神殿が、木立の中に、由緒ありげなたたずまいをみせていた。  格子戸越しに、内部を覗《のぞ》いてみたが、闇に包まれて、見わけがつかぬが、天狗の像ぐらいは安置されている模様であった。  拍手を打って、ひき下《さが》ろうとした折であった。  綺麗《きれい》な澄んだ高い声音《こわね》が、神殿わきから、ひびいて来た。 「やるよ、この飴《あめ》、みんなやるともさ——」  少女であった。  八右衛門は、廻廊《かいろう》をまわってみた。  廻廊上には、十歳前後の少年が、五人ばかり、一列に並んでいた。  そして、下方の地面に、十三四の少女が、一人、立っていた。その右手には、飴のついた竹串が、かざされていた。  八右衛門は、少女の貌《かお》を一瞥《いちべつ》したとたん、  ——これだ!  と、大きく頷《うなず》いた。 「いいかい! いちばん、遠くへ、とばした者に、やるよ」  少女は、いきいきして、叫んだ。  見知らぬさむらいが、姿を現しても、一向に眼中にない様子であった。 「用意——」  少女の掛声《かけごえ》で、少年たちは、一斉に、布子の前をまくって、小さなチンポコを出した。 「はじめ!」  五条の糸水が、小さな男子の象徴から、噴いて出て、地面めがけて、落下しはじめた。  少女は、地面からはねあがるそのしぶきが、ひっかかるほどの地点に、じっと立って、熱心に見くらべていたが、 「ハイ、わかりました。丹助《にすけ》のが、いちばん飛びました」  そう言って、廻廊へ近づくと、うやうやしく、一人の少年へ、飴をささげた。  その面差もさること乍ら、その無邪気で、放胆な遊びぶりも、八右衛門を、唸《うな》らせた。  ——これは、大したむすめだ。  年下のこわっぱたちを動員して、飴ひとつで、意のままに動かし、賞品をくれて満悦している。  この性根には、おそるべきものを、ひそませているように思われる。  飴をもらった少年が走り出すと、他の少年たちは、ひと口でも、しゃぶらせてくれろ、とわあっと叫びたてて、追いかけて行った。少女は、おちつきはらって、歩き出した。 「コレ——」  八右衛門は、呼びとめた。振りかえった少女は、なんの怯《お》じる色もなく、八右衛門を仰いだ。 「ねえや、小父さんにも、ひとつ、飛ばさせてくれぬか」 「……?」 「ねえやが、ここまで飛ばないだろう、と思うところに、立っているのだ。……もし、小父さんのやつが、とどかなかったら、一両やろうではないか」 「一両!」  少女は、目を瞠《みは》った。  一両などという大金は、親も持ったことはないに相違なかった。 「ほんとにくれるかえ?」 「やるとも」 「ほんとに、うそじゃないかえ?」 「うたがいぶかいな」 「大人は、うそつきじゃ。うちの父《とと》は、母《はは》に、年中うそついているし、母もわたしに、うそばかりついているのじゃもの……」 「わしはさむらいだ、嘘《うそ》はつかぬ」 「それでは、飛ばしてみなされ」  少女は、少年たちが濡《ぬ》らした地面から、三尺ばかり遠い地点に立つと、 「ここらで、ええかえ?」  と、問うた。 「もっと、はなれてよい」  少女は、大きく一歩後退して、 「こないに、遠く、飛ぶじゃろか」  と、小首をかしげた。 「よいかな、飛ばすぞ」  八右衛門は、袴《はかま》をたくしあげると、おのが自慢の逸物《いつぶつ》を、あらわにした。  少年たちの行為を眺めて、尿意《にょうい》を催《もよお》した八右衛門であった。  一条の噴水は、地面を縫って、距離をのばすや、あっという間に、少女の顔面へ、降りそそいだ。  舌をまいたのは、八右衛門の方であった。  少女は、まぶたを閉じただけで、身じろぎもしなかったのである。  八右衛門が、袴の下に逸物をかくした時、少女は、濡れた顔を、袖でぬぐって、 「おまえさまは、天狗かえ?」  と、訊《たず》ねた。  つぶらな澄んだ眸子《ひとみ》には、好奇の色があふれていた。  いきり立った逸物を、生まれてはじめて見たに相違ない。少女は、無邪気に、天狗を連想したのである。 「そうだ、わしは、天狗だ」  八右衛門は、ぱっと双肌《もろはだ》ぬいで、くるりと、背中の彫りものを、少女の目に、さらしてみせた。 「うわあ! 立派じゃ!」  少女は、心から感じ入ったように、手をたたいた。  八右衛門が、降りて行って、一両小判を与えると、少女は、てのひらにのせたそれを、食い入るように見入って、 「小判じゃ! これは、ほんものの小判じゃ!」  と、呟《つぶや》いたことだった。  五  八右衛門が、そこまで回想した折、花魁道中の方は、八文字を踏んで行く太夫の前に、見物人の目をおどろかせる引出物が、出現していた。  松の位の太夫というふれ込みの花魁ともなれば、庶民にとっては、高嶺《たかね》の花である。その道中を眺めるだけで、目の保養になる。  ところが、その刷り物によれば、太夫の気を惹《ひ》くことができれば、一夜の枕を交してくれる、という。  ここは一番、趣向《しゅこう》をこらして、一世一代の男|冥利《みょうり》をあじわってみたいところである。  といっても、先駆のついた道中の前へとび出すのは、大名行列を犯すほどの度胸がなければならぬ。  そこで、思いついたらしく、人垣を割って、躍り出てきたのは、途方もない大きなハリボテをかぶった七福神であった。たった一夜で作りあげたハリボテにしては、なかなか精巧《せいこう》で、大黒天など目玉がくるくるとまわったし、福禄寿の長いあたまからは、湯気の立つ仕掛けまでしてあった。布袋和尚は、ほんものの腹をひろげて、面白おかしく、凹ませたり、ふくらませたりしてみせた。  しかし、こんなおどけ者たちの踊りで、太夫の艶冶な足のはこびが止められることを、群衆は許さなかった。  たちまち、左右の人垣から、威勢のいい若い衆連が、走り寄って、そのハリボテをひっぱずした。とたんに、群衆が、どっと笑った。七福神は、いずれも、辻駕籠人足の面相をしていたのである。  一人、笑わなかったのは、太夫だけであった。  琺瑯《ほうろう》のように冷たく、透《す》けた顔には、無表情があるばかりであった。  それに代わって、次に躍り出て来たのは、ふんどしひとつの、六尺ゆたかな大男であった。ひっかついでいるのは、たたみ二畳大の大|団扇《うちわ》であった。  その大団扇の両面に、びっしりと大判小判が、とじつけてあって、力まかせに振りまわすたびに、数百枚の黄金の花が、けたたましい音をたてて、はねまわった。  重さもしたたかなもので、流石《さすが》の巨漢《きょかん》が、勢いあまって、大よろけによろけて、見物人たちを、ひやひやさせた。  だが、この趣向も、太夫の顔をほころばせる効果は、全くなかった。北叟笑《ほくそえ》んだのは、茶屋の二階から眺め下している年寄連たちであった。  太夫ともなれば、二百や三百の小判を見せられても、なんの関心も示さぬのが、貫禄《かんろく》である。女郎になり下がった花魁を、もう一度、松の位にまでひき上げてくれる太夫の出現に、喝采《かっさい》したくもなろうというものであった。  ところで、大尽の豪遊は跡を断《た》ったとはいうものの、通人と称する連中は、夥しかったのである。  吉原の年寄たちが、名もない女を太夫にしたてるならば、こちらも皮肉な趣向をこらしてやろうではないか、と通人たちが鳩首《きゅうしゅ》したとおぼしい者が、三番手に現れた。  一人の老婆が、大きな葛籠《つづら》を、重げに背負うて、よたよたと、道中の行手をさえぎると、そのまま、精根つきはてたように、べったりと、坐り込んでしまった。  誰でもが知っているお伽草子《とぎぞうし》「舌切り雀」の中に現れる欲ばり婆さんであった。どこからさがし出されて来たか、欲の権化《ごんげ》の面相が、人々に、すぐに、「舌切り雀」を思い当たらせた。  善良な面相のお婆さんが、背負《せお》って来た葛籠であれば、中には、宝物がいっぱい、詰まっていると受けとってよかったが、欲ばり婆さんの背負って来た葛籠には、化物がうじゃうじゃいる筈であった。  いったい、どんな化物を入れているというのか?  婆さんは、ぜいぜいと喘《あえ》ぎ乍ら、 「根津大尽の贈りものじゃ。受けとって下され」  と、言ったきり、動こうとしなかった。  葛籠には、錠前は下ろされていなかった。錠の代りに、結び文がつけてあった。  つけ文の方法としては、まことに巧妙であった。  中にどんな化物がひそんでいるか、その好奇心を満足させるには、その結び文をほどかなければならないのである。  太夫もはじめて、まっすぐに宙に据えていた眼眸《まなざし》を移して、その大葛籠へ当てた。  しかし、べつだん、表情も動かさず、老婆をひき立てようとする若者たちへ、かるくうなずいてみせた。  揚屋尾張屋へ持ち運ぶように、と合図したのである。  ——やはり、わしが、ひろって、江戸へつれて来ただけのねうちのある娘であったな。  群衆の中で、川柳八右衛門は、ひとり微笑した。  六  小便をひっかけた少女をつれて、天狗の祠の森を出た時、八右衛門の肚《はら》は、きまっていた。  少女の名は於松《おまつ》。年は十三。父は、今は筏《いかだ》流しをしているが、若い頃は、浪人であった、という。母親は一日中畑仕事をしているそうである。  ——これは、まともに、金で、話はつけられぬようだ。  あきらめねばならぬかも知れぬ、と思ったものの、八右衛門は、念のために、於松の家の内情を調べてみることにした。  夫婦は、地下《じげ》の者ではなかった。  偶然にも、八右衛門が泊めてもらった妙覚寺に、於松の母親が預けた位牌《いはい》があり、それが、前夫のものと判った。  於松の母親が、住職に打明けたところでは、亡夫は、備前池田藩家中であった。 「於松というのは、どうやら、前夫の子のようでござる」  それだけきけば、八右衛門は、およその見当がついた。この木曾山中にかくれ住んで、さむらいが筏流しになるに就いては、仔細がなければならぬ。  ——駆落ちだな。……もしかすれば、前夫を殺した姦夫姦婦《かんぷかんぷ》かも知れぬ。  於松が、義父と実母に対して不信を抱いていることは、その言葉で判ったことである。夫婦が不仲であることも、明白であった。  ——よし、さらって、逃げるか。  八右衛門は、ついに自分も女衒同様の悪事を働くことになったか、と自嘲したが、於松をあきらめることはできなかったのである。  野尻は、それから三日後が、牛頭天王《ごずてんのう》の祭りであった。  宵宮の祭り太鼓がひびく頃、八右衛門は於松をつれて、街道を奔《はし》っていた。  その時の心境が、次の川柳になって、ふところ手帖に記されている。  やわやわと重みのかかる芥川《あくたがわ》  花魁道中の行手を、突然さえぎった四番手は、趣向もくそもない、泥酔した破落戸《ごろつき》であった。 「やいっ、なにが、松の位だよう——ふざけるねえ。乙にすましけえりやがって、ちょっ、わらわせやがらあ!」  止めようとする若者たち二三人を、凄い勢いで、はねのけるや、破落戸は、くるっと裾をまくって、臀部《でんぶ》を、行列へ向けた。  放屁を一発、たかだかと鳴らすや、臀部を突き出し、あろうことか、太い黒い糞をひり出したのであった。  あっという間の出来事であった。  どんな行事にも、反感を持つ者がいることは避けられぬし、また、いやがらせをしてやろうという心理は、すこしひねくれた者には必ず起る。  そのいやがらせが、強い劣等感から生じて、それに快感をおぼえ、生甲斐《いきがい》とする人間ほど、下等でしまつにおえぬ者はない。  破落戸《ごろつき》は、その代表みたいな奴であった。  群衆は、どっとどよめいた。  なんてことをしやがる、と慍《おこ》った者もいたろうし、ざまをみろ、とあざけった者もいたろう。  いずれにしても、この臭いしろものを、太夫が、どう踏みこえるか——すべての者が、興味をそれにかけたことは、疑いない。  と——。  人垣の中から、さっと、出て来たのは、川柳八右衛門であった。  若い衆連が、破落戸をひきずり去るのを待って、八右衛門が為したのは、古渡《こわた》り唐桟《とうざん》の羽織を脱ぎすてると、ふわりと、路上に敷くことであった。  行列は、進みはじめた。  太夫は、羽織の上を、八文字に踏んで渡り乍ら、すずやかな眸子《ひとみ》を、八右衛門に向けて、にっこりと、会釈してみせた。  群衆が、うわあっとはやしたてた。  今宵、枕を交す対手《あいて》が、きまったのである。  ——よもや、わしが、対手になろうとは!  八右衛門は、苦笑せざるを得なかった。  松笠と名づけられた太夫は、揚屋尾張屋へ、しずしずとあがった。  二階の座敷で、何者がくれたのか、大葛籠が開かれることになった。  結び文をほどいてみると、たった一行、 「一日一両、右えさ代」  と、記してあった。  蓋を開くと、中から、ぴょんととび出て来たのは、なんとも珍妙な面つきをした小犬一匹であった。  頸《くび》に、板札がくくりつけてあった。  これこそは、狆《ちん》と申す異国の小犬に御座候。捨てられて、淋しゅう啼き居り候ゆえ、ふびんに思うて、拾いあげ申し候。何卒、おいらんに可愛がって頂きたく、願い上げ候。  捨てられていたなどと、とんでもない話である。大金を積んでも容易に手に入らぬ珍中の珍犬であった。これに一日一両、年に三百五十両の餌代をつけて、贈るという。  やはり、世間には、かくれた大尽が存在したのである。  松笠太夫は、その小犬を膝にのせ、八右衛門が姿を現すのを待った。しかし、ついに、八右衛門は、やって来なかった。  川柳八右衛門は、その時刻には、もう、江戸をはなれて、飄々《ひょうひょう》として、あてのない旅に出ていたのである。また、みがけば玉になる少女を、発見できるかどうか……。  花魁道中のさきがけをした松笠太夫が、その夜、異国の小犬と枕を交した事実は、記録にはのこっては居らぬ。  千人 於梅《おうめ》  本稿は、非人小屋頭《ひにんこやがしら》・五代《ごだい》車善七が、老衰の身を起して、さる文人に、語った昔話を、そのまま、紹介するものである。  非人とは、賤民《せんみん》にして、乞丐《こじき》の徒のことであり、人にして人に非ずの意味である。  したがって、その非人の小屋頭とはいえ、賤民であることにまちがいはない。  しかし、車善七の先祖をたずねると、立派な武辺《ぶへん》である。   車野丹波守といい、佐竹常陸介義宣の家老職をつとめ、石田光成とは婚姻関係にあった。  関ヶ原の乱が戡定《かんてい》の後、背叛《はいはん》の咎《とが》を蒙《こうむ》って車野丹波守は、徳川家康のために、磔《はりつけ》に処せられた。その嫡子《ちゃくし》善七郎は、これを深く恨みとして、家康を討《う》とうと計った。  事前に露見《ろけん》して、逮捕されたが、家康は、その孝情を憐《あわれ》んで、寛仮《かんか》に附し、旧主佐竹氏に仕えるように、すすめた。  善七郎は、頑《がん》として肯《がえん》ぜず、すみやかに、首を刎《は》ねてもらおうと、昂然と頭《こうべ》を擡《もた》げた。  家康は、いぶかって、 「討たんとする敵から宥《ゆる》されるのが、それほどの恥辱ならば、なぜ捕らえられる前に、自害せなんだ」  と、訊ねた。  善七郎は、笑って、 「すみやかに首を刎ねられい、と申上げているのは、恥辱のためではありませぬ。天下人たる大御所の生命を狙った罪人を、宥したとあっては、公儀法度が曲げられたことに相成ると存じ、罪人はその罪の軽重に応じて罰せられるべきだと申し上げて居ります」  と、こたえた。  家康は、愈々《いよいよ》その心構えの清純に感じて、獄から解いて去らしめた。すると、善七郎は、すすんで身を非人の群に投じた。家康は、これをきき、幕吏《ばくり》に命じて、善七郎を、非人の首長にした。  善七郎は、車善七と姓名を改めて、非人の群を統括《とうかつ》し、囚人の取扱い、死罪人引きまわしの護衛、獄門執行の雑役をなすとともに、浅草と品川に設けられた病気の囚人を収容する小屋(俗に、溜《ため》と称《よ》ぶ)を司《つかさ》どった。  爾来《じらい》、車善七は、非人頭を世襲した。  本稿の逸話を語ったのは、五代である。  一  左様でございます。死罪人の市中引きまわしというものには、もちろん、定めがございます。  小伝馬町《こでんまちょう》の牢屋から引き出した囚人を、非人らが、馬に乗せます。はだか馬ではなく、鞍代りに、菰《こも》が敷いてあるのでございます。囚人は、後手に縛ってありますから、落ちないように、縄で、馬の胴へ、くくりつけます。囚人が重い病いの場合、あるいは、心神喪失《しんしんそうしつ》の場合は、|曲※[#碌の字のつくり]《きょくろく》というものを鞍につけて、これに凭《よ》りかからせるのでございます。  引きまわしの行列は、非人五人が先払い、抜身の朱槍二本、罪状を記した捨札がつづき、あとに、紙|幟《のぼり》をかかげた「谷《や》の者」。幟には、囚人の姓名が記してございます。それから、囚人が馬で行くことになります。その馬の口は非人がとり、介添《かいぞえ》二人がつき添い、次に捕物道具を携えた「谷の者」。これにつづいて、南北与力の検使正副二人が、陣笠、野羽織で騎馬を進めます。これにしたがう同心四人。囚人取扱いの非人らが、二列になって、つづきます。非人たちは、いずれも、白衣、脚絆で、六尺棒を小脇にかかえて居ります。  まことに、ものものしく、威厳のある行列でございます。  引きまわしの順路は、小伝馬町牢屋敷の裏門を出て、小船町、荒和布《あらめ》橋、江戸橋を渡り、海賊橋から八丁堀、北紺屋町、南伝馬町を巡って、京橋に至り、芝車町(札の辻)からひきかえして、赤羽橋を渡り、飯倉、溜池、赤坂に出て、お城をぐるりと一周いたします。四谷、市ヶ谷、牛込、小石川の各御門の前を通りすぎて、水戸様(後楽園)わきより、壱岐坂を登り、本郷から上野広小路に出て、上野山下より浅草雷門、浅草今戸に至って、ひきかえし、蔵前から、牢屋敷裏門に戻るのでございます。  陽がさしそめた頃に出て、戻りついた時には、秋などは、昏《く》れかかって居ります。  同じ引きまわしでも、囚人それぞれによって、様子がちがって参ります。  悪事を積み重ねて、十度生れかわっても罪ほろぼしのできぬ極道者などは、娑婆《しゃば》の見おさめと、引きまわしをかえって、よろこび、俗に曳《ひ》かれ者の小唄と申しますが、鼻唄などをうたって居ります。  図太い奴は、見物の女子衆を、からかったりなどいたします。  今日一日の生命の者でございますから、たいていのわがままは、きいてやることになります。店先にならんでいるものを見て、「あれが食いたい」と申せば、それを取って、与えました。酒だけは、酔《よ》ってあばれることを警戒して、与えませんでしたが、見物衆の中で施す者があれば、ひと口ぐらいは、飲ませました。  身内の者が駆け寄れば、お役人衆は、馬を停めてやり、泪《なみだ》の別れもさせてやったものでございます。尤も、死罪引きまわしの恥をさらして居るのでございますから、身内の者が声をかけて寄って来ることなど、滅多《めった》には見られぬ光景でございました。  前話が、たいそう長くなりました。  左様、——もう、三十年も、遠いむかしのことになりまする。  物見高いは江戸の常、と申しますが、この日ばかりは、引きまわし沿道の両脇は、びっしりと隙間《すきま》のない人垣がつくられたと申しても、過言ではありませぬ。  囚人は、女で、見目美しく、しかも、かなり名の通った俳人だったのでございます。  千人|於梅《おうめ》——この時、三十六歳。うば桜でございましたが、どうして、遠目などでは、二十三四にしか見えない若さでございました。  殊に、黒髪の生えぎわが、絵に描いたような富士額《ふじびたい》で、いまもなお、その美しさが、ありありと、思い泛びまする。  そのゆたかな黒髪を、手一束に切って肩に散らし、白綾の小袖も清らかに、高小手に縛られているのが、いたいたしいばかりでございました。  斑馬《まだらめ》の背に、横掛けして、足くびもまた縄でくくられて居りましたが、無情の風になぶられて、裾がひるがえり、燃えるような緋の下裳《したも》がちらちらとのぞくさまに、男どもは、思わず息を詰めたことでありました。  頬《ほほ》が、ほんのりと紅潮していたのは、衆人の目にさらされる恥に堪えるためばかりではなく、引き添いの非人が、時折り柄杓《ひしゃく》で呉れるのが、実は、酒だったからでございます。  於梅が、それを所望したというよりも、検分役の与力殿の心づかいであったろうか、と察しられました。  春の淡雪《あわゆき》が、桜の花びらのように、舞っている寒い日だったのでございます。  死罪人の引きまわしというものは、ご想像の通り、陰惨な行事でございます。二刻《ふたとき》のあとには、打首か、磔《はりつけ》か、むごい断罪の課せられる囚人が、江戸市中すべての人の面前にさらされて、嫌悪の視線と嘲罵《ちょうば》の声をあびせられるのでございます。脳中が狂った極悪人でもない限り、顔を擡《もた》げて、平然としていられる段ではありませぬ。わたくしの記憶の中にある最も極悪な——実の母を犯して、締め殺した男でさえ、始終顔を伏せていたことでございます。  ところが——。  あろうことか、かよわい女性《にょしょう》である於梅が、降りかかる雪華《せっか》の中で、みじんの悔いも怖れもなげに、すずやかな眸子《ひとみ》を宙に置いて、頭を立てていたのでございます。  沿道に蝟集《いしゅう》した群衆の中で、この妖《あや》しいまでの艶冶《えんや》な姿を、瞶《みつ》めて、万感胸にせまらせている男が、百人や二百人ではなかったことを、わたくしは、申上げたいのでございます。  二  罪状を記した捨札には、  おそれ多くも将軍家御|祈祷所《きとうじょ》に於て、道心一同に女犯《にょぼん》の罪をなさしめ、その罪露見するや、放火して、これを隠蔽《いんぺい》せんと企て、云々  と、記してあった。  於梅が、夜毎に、忍び入って、三十余人の寺僧と、つぎつぎと枕を交した寺は、浅草松葉町の海禅寺《かいぜんじ》であった。  海禅寺は、京都妙心寺の末寺で、古く、平将門が下総《しもうさ》相馬に建立《こんりゅう》し、後代に至り、妙心寺の覚印長老が通りかかって、荒草の中に廃れた堂塔を視て、これを、江戸湯島に移した。  家康が江戸入りしてから程なく、不忍池畔を通りかかった際、屋根に草が茂り、檐《のき》の傾いた海禅寺をみとめ、山門をくぐって、住職に会ってみると、京都妙心寺の長老覚印であることが判った。覚印が、学道の善智識であることは、すでに家康の耳にもとどいていた。  家康の庇護を受けた海禅寺は、たちまち伽藍《がらん》を建立して、江戸中の善男善女を集めた。明暦の大火に遭《お》うて、堂舎ことごとく焼け失せたので、のち、浅草に地を賜って、再興したのである。  そして、将軍家祈祷所のひとつとして、格式を張っていた。  その寺院内で、淫婦《いんぷ》は、寺僧を片はしから誘惑していたのである。このことを、寺社奉行所が、町奉行所同心の内報によって知り、逮捕におもむくや、淫婦は、方丈に火を放ち、その隙に遁《のがれ》ようとして、捕えられたのであった。  まことは、寺僧の一人が、放火したのであったが、その詮議をすれば、累《るい》を多方面にまで及ぼすことになるので、於梅の所行としたのである。  道心三十余人は、傘一本を与えられて、追放処分にされたのであった。  於梅は、放火の罪によって、磔《はりつけ》の刑に処せられるのであった。    お上の御処置というものは、罪の事情によって、自在に便宜をはからうものでございます。  於梅が、放火もせぬに、放火した罪をきせられて、磔にされることになりましたのも、於梅を生かしておけぬ理由があったからでございます。  於梅が、ただ、由緒《ゆいしょ》あるお寺の道心らに、からだを与えていただけの罪ならば、日本橋の高札場で三日間さらされて、非人に落とされるだけにとどまります。  ところが、放火は、磔の極刑に相成ります。  於梅を、殺さなければならなかった理由と申しますのは、於梅が一夜の契《ちぎ》りを交した男の中には、ご公儀の要職に就いておいでの御仁もかぞえられたからでございます。  於梅は、男子千人と契りを結ぶ誓願を愛染明王《あいぜんみょうおう》にたてて、その九百九十九人目の道心と倶臥《ともぶ》ししていたところを、捕えられたのでありました。  小格子女郎や、夜鷹《よたか》、船まんじゅうのたぐいならいざ知らず、素人女が、宝珠《ほうじゅ》の玉を千人の男に与えるということは、なみたいていのわざではできることではありませぬ。男ならば、女郎売女を買う手がありますが、女の身になれば、西鶴の『一代男』のような次第には参りませぬ。  於梅は、夜鷹に身をやつして、くらがりで男の袖を引いて、千人を悲願した次第ではなかったのでございます。  どのようにして、二十年のあいだに、九百九十九人の男と契ったか——このことは、お白洲に坐らされても、於梅は、くわしく語ろうとはしませなんだ。  於梅自身、世間に名のきこえた人や、身分地位のある方に、累を及ぼすのを、きらったものに相違ありませぬ。また、奉行所に於ても、その聴聞書をのこすことをさけたのでございましたろう。  ただ於梅がはっきりとこたえたのは、同一の男子とは、二度と契ってはいない、ということでございました。  のみならず、契った男の多くは、於梅を女友達として、さりげない長いつきあいをしていた由でございます。これは、於梅の美しさを愛した、と申すより、その才女ぶりにひかれた、と考えられるのでございます。  そこに、於梅という女の面目がございました。於梅の悲願は、十六歳の春から、と申しますゆえ、爾後《じご》二十年間——千という男の数は、これを日に割れば、七日に一人という計算に相成ります。  おそらく、於梅が身を投げかけた男で、これをしりぞけた者は一人もいなかったのではございますまいか。  逆説めく申し様でありますが、白無垢《しろむく》姿で馬上を行く於梅の美しさは、悲願によって、九百九十九人の男をよろこばせた女の、いっそ、済度利生の菩薩|形《なり》とも見えたことでございます。金子《きんす》のために、身をきり売りした女どもとは、おのずから、区別される姿だったのでございます。  三  於梅が、才女とうたわれたのは、もとより、天性のものでございました。父は、俳人として名の通った梅叟《ばいそう》という御家人でありました。  その屋敷の庭に、一樹の老梅があったのでございます。  いやしくも、風流をたしなむ人士で、この老梅の優雅な枝ぶりを眺めに、足をはこばなかった者は、江戸に一人もいなかった、ときいて居ります。  五十歳で隠居して、梅叟と名のってから、さる深川の芸妓に生ませた娘が、於梅でございました。  一日、梅叟の屋敷に集った文人墨客の一人が、酔余のたわむれに、色紙に大きく墨絵の髑髏《どくろ》を描いて、於梅をおどろかせようとしたことがありました。  老父のうしろにひかえていた於梅は、その時十二歳、まだ肩あげのとれぬ少女でございました。  髑髏の図を示された於梅は、おどろくかわりに、にこりとして、つと立つや、化粧|函《ばこ》から、貝殻の紅《べに》を小指にすくいとり、その髑髏の額に、赤い一点を捺《お》した、と申します。   紅《べに》さして梅花供養や無縁仏《むえんぶつ》  十二歳の少女の口ずさんだ句に、一座は、声をのんだということでございます。  老父慈愛の訓育があったとは申せ、この一事をもってしても、いかに、於梅に、天性の才分が与えられていたか、わかることでございます。  爾後、風流|人《びと》の間では、於梅は、「むめ女《じょ》」と称《よ》ばれるようになりました。  わたくしのような無学な者が、事がましゅう口にいたすのは、面はゆいのでございますが、蕾《つぼみ》の梅は、「むめ」で、すでに開いた梅は「んめ」というのでありましょう。 「うめ咲きぬ、どれがむめやら、んめやら」  とは、その煩しさを笑った句であります。 「むめ女」と称ばれたのは、この蕾が、将来、どのように美しゅう咲くか、という期待が抱かれたからにほかなりますまい。  書は好んで古筆を模《も》し、画は四君子を朱筆に描いて妙、また、琴をかなでれば、庭に鶯《うぐいす》が慕い寄る、といったあんばいでございました。  人は呼んで、むめ女の四芸、と申しました。四芸は、至芸にかけたのでありましたろう。書、画、琴《きん》、そして、あとの一芸は、その白い豊かな肢体を、おのが見込んだ男に与えて、濡《ぬ》らすことでありました。  いま、引きまわされて行く於梅の白無垢姿を、馬上に仰いで、幾多《いくた》の男たちが、万感胸に迫った、とさきにも申上げましたが、これらの男たちの心中には、  ——この女こそ、おのれに、はじめてまことのよろこびを与えてくれたのだ!  という気持がわいていた、と申上げられるのでございます。  どの男も、ただ一度きり、契っただけでございました。  そして、そのからだの神秘《くしび》なまでの美しさと味わいを、渠《かれ》らに、生涯の思い出とさせていたのでございます。  男が、情のあふれるまま抱き締めたそのしなやかな、軟かな肢体の、宛然《さながら》溶けはてるような肉の重み。  口を吸えば、ひそやかに受けとめる舌さきの、ねっとりと甘く、なめらかな感触。その肌は、しっとりと潤《うるお》いをおびて、哀しいまでに、ほのかに匂い——その匂いに男は、われを忘れて、二つの身をひとつにするわけでありましたが、その刹那《せつな》から、押し入った男は、蜘蛛の巣にかかった毛虫同様、ただもう、もだえ狂うて、あわれ、精気をのこらず吸いとられて、ぐったりとなり果てるまでは、離してもらえぬのでございました。  於梅自身はと申せば、羞恥《しゅうち》を、緋の長襦袢《ながじゅばん》の片袖でかくして、声もたてずに、わずかに、ゆるやかに腰をたゆたせるばかりでありましたとか……。  さて——申しおくれましたが、引きまわしの馬の口をとっていたのは、このわたくし車善七でございました。  非人とはいえ、小屋頭であるわたくしが、死罪人を乗せた馬の口をとるなど、いまだ曾てなかったことでございます。  四  おききおよびと存じますが、斬首《ざんしゅ》、磔の刑場は、牢屋敷の北隅にございます。  長さ二間、五寸角の柱に、横木二本の構造の罪木柱を、地べたに横たえて、囚人を、仰臥せしめて、上下の両肢を柱に縛りつけます。次いで、白衣を左右袖脇下より、腰まで裂きやぶって、胴縄をかけるのでございます。  罪木柱に、於梅を縛りつける作業は、わたくし一人の手でやりました。白衣を裂いた時、前がはだけて、豊かな双の乳房があらわになった瞬間、わたくしは、思わず、ごくりと生唾《なまつば》をのみ下したことでございます。  九百九十九人の男の口にくわえさせたその乳房は、白桃のように、ほっかりと優美なかたちに、みじんの崩《くず》れもなかったのでございます。わたくしは、あわてて、白衣の前を合わせてやりました。  罪木柱を、地上に立てた時でございました。  検視役として、吟味与力《ぎんみよりき》筆頭の綱淵真三郎殿が、出役なさいました。  綱淵真三郎殿は、温厚な人柄で知られた御仁でございましたが、この日ばかりは、別人のように、眉間に険しい色を刷《は》いておいででございました。  同心たちは、意外な与力の様子に、けげんな視線を向けて居りました。  真三郎殿は、文武のたしなみもふかく、兄上の急死によって、綱淵家を相続してから、累進して吟味与力筆頭におなりでございました。部屋住みの時代が長く、苦労人だけに、寛容の徳をもって、部下方から慕われて居りました。  このように、険悪《けんあく》な態度を、人に見せられたのは、はじめてのことでございました。役目柄、寸毫《すんごう》も仮借せぬぞ、といった冷徹きわまる眼光を、死罪人に放つのに、一同は、はじめて接したのでございました。  なぜであったか。  わたくし一人だけが、知って居りました。  真三郎殿は、淫婦に対して、憤怒を抑え難かったのでございます。  千人の男と契るという悲願をたてて、これを実行した、まことに、良家の子女にあるまじき所行の果ての、あさましい姿を、真三郎殿は、断じて、許せなかったのでございます。  なぜならば——。  綱淵真三郎殿は、部屋住みの少年期を、梅叟屋敷の隣家で送られていたからであります。  早春、垣根ごしに、美しく咲く梅が香は、多感な少年の胸を、ときめかせたに相違ありませぬ。  その屋敷に住む父娘は、真三郎殿にとって、別世界の、あこがれの人たちだったのでございましょう。  綱淵家は、武辺を誇る、三河武士の伝統を厳しく守るお旗本でございましたので、その埒《らち》をはずさぬように育てられた真三郎殿の目に、風流人梅叟の、浮世をすてたくらしぶりは、まことに自由なものに映ったし、その娘「むめ女」の可憐な声は、鶯のさえずりよりも、こころよく、耳にひびいたことだったでございましょう。  二十年も経て、思いがけなくも、古今に比類もない淫婦が「むめ女」の後身とさとって、真三郎殿が、どのように驚愕され、憤怒《ふんぬ》されたか、想像にあまりあることでございます。  於梅が牢につながれてから、その淫靡な行状は、つぎつぎと、真三郎殿の耳に入って参りました。  洗耳、ということばがございます。いやな話をきいた時は、耳を洗って、そのけがれを流す、という意味だそうでございますが、真三郎殿の心境が、とても、その程度では、すまされなかったことは、察するにあまりがありまする。  真三郎殿は、つかつかと、罪木柱に歩み寄られました。 「善七、——柱を倒せ」  鋭く、命じられました。 「どうなされます?」 「倒せ!」  問答無用という態度でございました。  わたくしが、非人らに命じて、柱を地べたへ横たえますと、真三郎殿は、 「囚人めの衣を剥《は》ぐのだ」  と、申されました。  わたくしごとき、言葉をかえす身分ではありませぬ。  わたくしは、柱にくくりつけられた於梅の身を自由にしてやり、「下知でござれば」——と言って、その白衣を、うばいました。於梅は、もう、心神がなかば虚脱していたとみえ、べつに、あらがいもせずに、緋の湯文字一枚になりました。  北風に刺された肌身が、ひきしまったために、ふっと、われにかえったように、於梅が、わたくしを視て、 「雪を、ひと口、頂かせて下さいませ」  と、たのんだのでございます。  春の雪は、もう、うっすらと、地につもって居りました。  於梅は、自分の手で、雪をすくいとると、口にいたしました。この大地に、永遠に別れを告げる手ぶりともみえたことでございます。  緋の湯文字一枚の於梅を、再び、罪木柱にくくりつけようといたしますと、 「その湯文字もとれ!」  残忍な真三郎殿の命令が、とんで参りました。  流石《さすが》に、わたくしは、躊躇《ちゅうちょ》いたしました。しかし、一度命令を下された真三郎殿が、これをひるがえすとは、とうてい、考えられませぬ。  わたくしは、その裸身をまとうた最後の布も、剥ぎとってしまいました。  意外だったのは、於梅の態度でございました。一糸まとわぬ姿にされ乍ら、於梅は、睫毛一本そよともさせずに、昏《たそが》れる時刻をのばした雪景色の中に、すっきりと、立って居りました。  わたくしは、罪木柱の上に、その裸身を仰臥させると、腕木に高小手四箇所を縛り、次いで、腰掛け木を両股で挟《はさ》ませたのでございますが、その時は、われにもあらず、指がふるえたものでございました。  罪木柱は、再び、全裸の囚人をくくりつけて、地上に立てられました。  於梅は、双の目蓋を閉じて居りました。  わたくしが、ひそかに窺いますと、真三郎殿は、まるで狂人のような凄《すさま》じい眼光を、その裸身へ、そそいで居られました。やがて、 「よし! 突けい!」  厳然《げんぜん》と、下知が叫ばれました。  突手の二人の非人が、左右にわかれ、槍を於梅の面前で、合わせ、戛然《かつぜん》と音をひびかせました。  これを、見せ槍と申し、たいがいの囚人ならば、この音によって、恐怖が全身から噴いて、意識を失います。  その時でございました。  わたくしは、不意に、 「待て!」  と叫んで、突手の一人から槍をうばいとりました。  うばいとるやいなや、 「南無!」  と、となえざまに、於梅の脾腹《ひばら》から胸へ、刺し通し、さっと、抜きとりました。血汐が、槍の柄に流れるのは、未熟とされて居るのでございます。  於梅は、そのひと突きで、絶命いたし、がっくりと、首を垂れました。  わたくしは、槍を突手に返しました。  突手二人は、左右より、於梅の喉《のど》を突き刺しました。これを止め槍と申します。  屍体は、そのまま、番人をつけて、三夜三日さらしておくことに相成ります。  しかし、於梅のむくろは、その夜のうちに、罪木柱からおろされて、何処かへ、はこび去られたのでございました。  五  綱淵真三郎殿が、任務をすまして、奉行所を出て帰路につかれたのは、もう夜もかなり更けた時刻でございましたろう。  雪はやんで、夕刻までぬかるんでいた道はもう凍てついて居りました。  と——。  とある曲り角に来た時でございました。 「綱淵様——」  方寄せた雪の上から、呼びとめた者がありました。  そこへ、蹲《うずくま》って、真三郎殿の帰りを待ちうけて居った者でございました。  ほかならぬ、実は、このわたくし——車善七だったのでございます。  小屋頭ゆえ、衣服をあらため、袴もはいて居りましたけれど、非人が、奉行所お役人衆に、直接話しかけることは、許されて居りませぬ。  土下座《どげざ》して、帰途を待ち受けて居りましたのも、奉行所内では、人目をはばかったためでありました。 「善七か——、急な用向きでも、起ったか?」  真三郎殿は、いつもの寛容なお人柄を、その態度に示されました。 「内々にて申し上げたき儀がございまして——」  公事《くじ》ではないときかれて、真三郎殿は、供の下男に、さきに行けとお命じになり、 「きこう」  と、お寄りになりました。 「於梅のなきがらを、夕刻柱よりとりおろして、運び去りましたのは、てまえでございます」 「そうであろうと思っていた。わしの所行をむごいとみて、遺体にあわれみをかけたのであろう。……どこかの無頼者のやったことにすればよい」 「いえ、綱淵様——。てまえの申上げたいのは、そのことではございませぬ。善七、お手討ちを覚悟の上にて、二十年前の罪状を申上げたいのでございまする」 「奉行所へ、もどって、きこうか?」 「いえ、寒気の中にお立たせして、申しわけなきこと乍ら、この場にて、おききとりたまわりたく存じます」 「では、話してみよ」 「二十年前の春の宵のことでございます」  わたくしは、語り出しました。 「梅叟様には、連句の会にお出かけになり、当時十六歳のむめ女様おひとり、月の庭に出ておいででございました。その時、貴方様が、そっと、木戸を通って、庭へ忍び入っておいでになり、老梅の下にお立ちなされました。元服すぎて間もない、紅顔の若衆が、花も蕾の乙女のそばに寄られたのでございます。絵のように美しいけしきでございました。……てまえは、垣根の蔭に、蹲《うずくま》って、そっと、窺って居ったのでございます。目蓋をふさぎますと、まるで昨日のことのように、その光景が、泛《うか》んで参ります。……いずれからともなく、お二人は、手を把《と》りあい、怯《お》ず怯《お》ずと、顔を寄せられました。……唇と唇が、ついに、合った——その次の瞬間、貴方様は、むめ女様を突きはなされて、まるで、追われるように、木戸から、わが家へ逃げかえられました。旗本として、あるまじき、密会を、強くお悔いなされましたか。われらいやしい身分の者とは、そこが厳しく区別される、みごとな自制のお力をお持ちだったわけでございます。それにひきかえ、垣根の蔭にひそむてまえの両眼は、豺狼《さいろう》の光を、ぎらぎらと放っていたのでございます。てまえは、その時、二十歳で、先祖こそ武家であれ、いまは、世間の人々とまともにつきあいもできぬ非人|風情《ふぜい》に生れおちたことが、口惜しく、自棄から、血気にまかせて、極道をつくしていた頃でございます。かねてより、才色兼備の美しい娘御であるむめ女様を、遠くかい間視て、欲情の炎を燃やしていたてまえでございました。梅叟様が他出なされる時をつかんで、忍び入ってやろうと機会をうかがっていたことを、かくしはいたしませぬ……。折も折、貴方様がお入りなされて、いったんは、抱いて、口づけをなさり乍ら、無情に突きはなしてお逃げになったのを目撃して、てまえの総身が、野獣のごとく、狂暴な欲望にかりたてられたのは、やむなき仕儀でございました。むめ女様が、力なく、老梅の根かたに蹲って、すすり泣くさまを眺めては、もう、おのれを制すべくもなく、てまえは、庭へ押し入り、矢庭に、むめ女様に躍《おど》りかかって、その場へひき倒したことでございました。今思いますに、むめ女様が、その際、悲鳴もあげずに、てまえのなすがままにされていたのは、美しい姿に似ず、烈しい気象をひそめていたゆえに、貴方様に対する復讐の気持が動いていたのではありますまいか。それにしても、てまえが、その稚《おさな》く嫩《やわら》かな操を押しやぶった刹那、むめ女様の口から、思わず、もらされたのは、『真三郎様!』というお名であったことは、真実、いつわりではござりませぬ……。その後、程なく、梅叟様がお逝《ゆ》きなされてからは、むめ女様の行状が、しだいに、人の口の端《は》に乗りはじめ、それを耳にするにつけて、われらも、金子があるにまかせて、さまざまに姿を変えて、むめ女様に近づこうといたしましたが、ついに、望みは叶えられませんでした。むめ女様は、いかに姿を変えても、てまえが、はじめて自分を犯した男であることを、忽ち看破《かんぱ》されたのでございます」  そこまで語ってから、わたくしは、いったん口をつぐみ、しばらく俯向いて居りました。  やがて、顔を擡《もた》げて、 「綱淵様! てまえが申上げたいのは、むめ女様が、たとえ千人の男と契ろうとも、ただ一人、おのが心に秘めておいでなされた男子は——ただ一度、口を合せられた貴方様だけだったのでございます。これは、神明に誓って、申上げられることでございます。何卒、お信じ下さいませ。むめ女様は、貴方様が検視役として前にお立ちなされたことを、よろこんで、果てられたに相違ございませぬ」  かきくどくがごとく、わたくしは、申上げたことでございます。  綱淵真三郎殿は、ついに、一言も、言葉を返しては下さらず、わたくしが申上げおわると、無言で、その場を、はなれてお行きなさいました。  雪明りではあっても、星の光だけでは、真三郎殿の眉目《びもく》が、どのような変化を起されたか、うかがうすべもなかったことでございます。  その次の日の朝のことでございました。  わたくし非人小屋頭の屋敷の奥座敷には、於梅の遺体が、安置されて、非人一同の誦経《ずきょう》がつづけられて居りました。  死化粧をほどこされた於梅の貌《かお》は、まことに、美しゅうございました。  まるで、十六歳の乙女にかえったように、稚くさえ感じられる貌に、わたくしども一同は、なにか神々《こうごう》しいものさえおぼえていたのでございます。  そこへ——。  黙って、一人のお武家が、目ばかりに覆面して入っておいでなさいました。その手には、紅梅の一枝を携えておいででございました。  お武家は、お坐りなされると、掛具を剥ぎ、つぎに、容赦もなく、白羽二重の寝衣の前を左右にめくられました。  そして、携えられた紅梅の一枝を、そっと股間にお挿しになったのでございます。  九百九十九人の男と契った於梅に、その一枝をもって、千人悲願を成就《じょうじゅ》させてやったのでございましたろうか。  わたくしは、その時、俯向いて、ひくく、むめ女十二歳の時の句を、口誦《くちずさ》んで居りました。   紅さして梅花供養や無縁仏  勇婦桜子 「生甲斐《いきがい》だな」  こう呟いたのは、宗匠頭巾《そうしょうずきん》をかぶり、十徳《じっとく》をつけた品のいい老人であった。  同じ床几に、裕福そうな町人の連れがいて、「まことに——」と、頷《うなず》いた。  湯島天神《ゆしまてんじん》の台地にある茶屋の前に憩うていた。  二人の視線は、碁盤目《ごばんめ》に並んだ下谷の町の屋敷をへだてて、上野の山を掩《おお》うている今日を盛りの桜花へ、向けられているのであった。  やわらかな春の光をあびて、視界いっばいに咲きほこった花の馳走は、江戸中の人が指折りかぞえて待っていたものである。  花の下には、何百という、幔幕《まんまく》が張られ、筵席《むしろせき》では、飲めや唄えの宴がくりひろげられている筈であった。黒門から二王門のあたりを、黒胡麻《くろごま》を撒《ま》いたように人影がうずめている。  鳴物が、この台地までも、つたわって来る。  花見は、年々歳々華やかになって来ていた。  女たちは、正月小袖は仕立てず、今日のために、結構に手をこめ、伊達《だて》なもの、数奇《すうき》に好んだ花見小袖《はなみこそで》をつくって、妍《けん》を競《きそ》うのであった。花の頃は、空はくもって、大方昼すぎから雨が降って来ることが多いが、華やかに着飾った女たちは、たとえ降られてもすこしもあわてず、傘などささずに、その花見小袖を濡《ぬ》らして帰るのを手柄としたのである。  花見の場所は、この上野のほかに、向島、飛鳥山《あすかやま》、御殿山《ごてんやま》があったが、それぞれの場所によって、花見の趣《おもむ》きがちがっていた。上野は高尚、向島は粋、飛鳥山は野暮、御殿山は野卑、といわれ、東叡山《とうえいざん》〔上野〕の花見は、上の上であった。  上野には、大名旗本衆が、一門一族を率いて、幔幕を張ったからである。  それでも、花にうかれて、飲むほどに、酔うほどに、大層な騒擾《そうじょう》となってしまう。儒者詩人が杖を曳いて、桜花の風情を咏《うた》う景気は、遠く小金井堤あたりになろう。  この老人が、花見の場所を、ひっそりとしたこの湯島の台地をえらんだのは、考えたことである。 「其庵《きあん》様、ひとつ、この佳《よ》い日に、ふさわしい話をきかせて下さいませぬか」  町人が、せがんだ。 「きかせようかな」  其庵と呼ばれた老人は、微笑し乍ら、 「あの花の下で、あちらでも、こちらでも、唄われている歌について、お話しいたそう」  と、言った。 「あちらでも、こちらでも、唄われている歌というと……、咲いた桜に——でございますか」 「左様——。  咲いた桜に、なぜ駒つなぐ  駒が勇めば、花が散る  おもしろい歌だ。そう思わぬか、治兵衛《じへえ》さん?」 「はあ——?」  町人にすれば、あまりにききあきた流行歌《はやりうた》であった。いまさら、おもしろい歌だ、と言われても、すぐに頷きかねる。  老人の方は、微笑をつづけ乍ら、 「人の口から口へと唄われる歌は、なんとなくしぜんに作られたものであるべきもの。この歌のおもしろさは、作為がないことだな。つまり、その光景があって、それが歌になった——という次第。いちばん、おもしろいのは、咲いた桜に、なぜ駒つなぐ、の|なぜ《ヽヽ》という意味じゃて」 「ほう——?」 「これは、どうしてつないだのか、という意味ではなく、なぜ、このようなすばらしい腕前を持っていたのか、というほめ言葉をあらわして居る」 「腕前、と申しますと?」 「駒を、桜の樹につないでみせた腕前のことだな」  老人は、語りはじめた。  一  左様——、あの日は、かぞえて、もう三十年もむかしのことに相成る。  やはり、今日のように、美しく晴れた、絶好の花見日和であった。  時代も良し——武士はようやく武道を等閑《とうかん》にして柔弱になり、華美の風が江戸の上下にゆきわたって、泰平無事の世が千年もつづくと思われていた頃なれば、花見はまさに、年中行事の中でも最も盛んなものに相成っていた。  その日、わしは、大目付の身分をかくし、編笠をかぶり、小者ただ一人をつれて、花盛りを巡視に出かけた。二王門の外で、馬をすてて、山にのぼってみると、東照宮の御宮の脇から、清水観音堂のあたりにかけて、内幕外幕を打廻したものが、かぞえきれぬ。幌のない町人らは、毛氈《もうせん》やら花むしろを敷いて、琴をかなでる者、三味線をかきならす者、唄う者、踊る者——いずれも、仮装をこらして、今日のために、金にあかしたさまを誇って居った。  花見というものにはじめて接したわしは、名ある大名が、幕をへだてた隣りの席の町人の唄いはやすざれ歌に、手拍子をとって興じている様子に、ただ、あきれはてたものであった。  武士の最期は、散る桜の如くあれ、と教えられ、その満開の景色にも、明日のわが身を想うた無常観は、どこへやら、そこには、露の身などという湿《しめ》り気分はみじんもなく、春ごとの華にうかれはなやぐ生命の謳歌《おうか》があったわな。  大名も旗本も徒士《かち》も足軽も商人も職人も、ひとつになって、さわぎたてる光景は、まことに、愉《たの》しいものであった。  わし自身も、いつの間にやら、ついうかれ気分にさそい込まれて、懇意《こんい》の書院番組頭、仙石吉之進|篤久《あつひさ》の幌幕を見つけ、そこにおのが席を設けてもらったことであった。  盃を二つ三つ重ねた頃あい、不意に、彼方《かなた》に、叫び声と悲鳴があがった。  荒れ馬が、二王門から躍《おど》り込んで、あばれ狂いはじめたのである。  頭《こうべ》をまわしてみて、わしは、はっとなった。  たてがみを逆立てつつ、緋毛氈や花むしろの宴席を踏みにじって、こちらへ疾駆《しっく》して来るあばれ駒は、疑うべくもないわしの愛馬ではないか。  腹白四蹄白《はらじろしていじろ》の虎鹿毛《とらかげ》の南部駒は、江戸に二頭とはない、わしが自慢の逸足であった。どんな遠方からでも、一瞥《いちべつ》で、知れる。 「しもうた!」  馬責めに経験あさい小者にたづなを持たせておいたのが不覚であった。なみなみならぬ悍気《かんき》の駿馬《しゅんめ》で、突如としてはやり立つや、乗りこなしている筈の主人のわしでさえ、とりしずめるのにひと苦労するのだ。  酔漢にでもからかわれて、悍気をほとばしらせたに相違ない。  わしが、大急ぎで、立ち向って行こうとした時であった。  その前面に、大手をひろげて立ちはだかった者があった。それが、なんと、みすぼらしい身装《みなり》の小娘であった。  虎鹿毛は、小癪な挑戦者に、威嚇の棹立ちをしてみせた。と見た瞬間、小娘は、敏捷《びんしょう》な動作で、その白い腹の下をかいくぐって、ぴょんと跳び上りざまに、くつわを取ってみせた。  虎鹿毛は、激しい勢いで首を振って、小娘の手をはなそうとした。荒れ馬をとりしずめるには、この瞬間が、大切である。力まかせに、おさえつけようとしても、馬の首の強さに敵うものではない。うち振る首の力に、逆らわず、しかも、ゆるめずに、馬の呼吸に合せて、奔《はし》り乍ら、一瞬の間に、ヒラリと乗ってしまわねばならぬ。  小娘は、それを見事にやってのけたではないか。  鞍上《あんじょう》の人となって、太股まであらわに裾がひるがえるのをはじらう色もなく、馬術に謂《い》う四面の鞍の巧みな姿勢で、卵を握る手の内の手綱さばきもあざやかに、タタタ……と、わしらの眼前を駆け抜けるや、彼方の清水観音堂の蔭に入った。  ひきかえした時には、足なみを地道《じみち》にさせて、ただのおとなしい馬にもどして居ったのには、ただもう、唖然《あぜん》たるばかりであった。  虎鹿毛が、首を垂れて、すごすごと、ひきかえして来たさまは、小娘に呪文でもかけられたか、と疑いたくなるほどであった。  二  小娘は、おのが腕前を誇る気色もみせず、ただあたりまえのことをした様子で、地上に降り立つと、かたわらの桜の幹へ、手綱をむすびつけておいて、そのままスタスタと立ち去って行こうとした。  恰度《ちょうど》そこへ、虎鹿毛に蹴とばされて悶絶《もんぜつ》していたわが家の小者が、顔面蒼白になって、駆けつけて来たので、わしは、叱咤するかわりに、 「あの小娘を尾行して行き、素性を調べあげて参れ」  と、命じておいて、仙石家の幕の中へもどった。  わしが、仙石吉之進の様子がただならぬものに変わっているのに気がついたのは、席に就いてすぐであった。  多芸多能の吉之進は、自ら三味線をひいて、小唄をきかせて、妻女はじめ女中たちをよろこばせていたが、この騒動を視てから、人が変わったように、むっつりとしてしまったのだ。  三河譜代《みかわふだい》の門地に生まれ、一瞥はっとさせるほどの美貌を所有し、まだ齢《よわい》二十八歳の若さで、書院番|組頭《くみがしら》である智能秀でたこの六千石の旗本にも、不足しているものがひとつあった。  病弱で気力に乏しかったのである。風邪をひけば、すぐ熱を発して、二十日も一月も寝込んでしまう体質であるために、少年時代から、ついに、武芸だけは修練できなかったのである。  病身のせいか、妻をもってすでに六年になるが、まだ子を為《な》しておらぬ。おそらくは妻女と同衾《どうきん》するのは、月に一度あるかなしであろう。わしが、もうそろそろ世継《よつぎ》にめぐまれてもよかろう、と言った時の返辞によって、そう察しられたことだ。  吉之進は、みすぼらしい小娘が、苦もなく悍馬《かんば》をとりしずめるのを目撃して、おのが病身の不甲斐なさを思い、遽《にわか》に、陰鬱な気持に陥ちたに相違ない。  わしは、吉之進が、ほっと深い嘆息を吐くのを、みとめた。  吉之進は、黙って立ち上がると、幕から出て行った。それを待っていたように、吉之進の妻女が、わしの前に来た。 「お願いがございます」  妻女の面持《おももち》は、真剣なものになっていた。 「只今の勇ましい娘の素性を、お調べなさるようでございますが、どうあそばす所存でございましょう?」 「いや、べつに、どうしようという思案もない。ただ、あまりに鮮かな手並をみせたので、ためしに、どんな家の娘か、つきとめておいてみるまでのことでござる。あの娘を、どうかしたい、という願いか?」 「はい——」  妻女は、頷《うなず》いた。  この妻女は、狭山《さやま》領主北条相模守の次女で、才女のほまれ高い女性であった。  妻女は、良人《おっと》の様子を察したのである。  嫁して六年になるのに、いまだ子を為さぬことは、女として、慙《は》じなければならぬ。おのが腹がふくらまぬからには、側室をすすめねばならぬ。いや、勿論、疾《と》くに、良人にすすめているに相違なかった。病身の良人は、男女の営みにも淡泊であり、側室を持とうともせぬのだ。堅物であるというよりも、体質が受けつけぬのだ。  芸能ならば、なんでも、たちまち、こなしてみせる吉之進が、女色を好まぬ筈はなかったのだが、病身を忘れるほど魅力のある女に一度も出会って居らぬ、ともいえた。  妻女は、良人の態度が急変したのに接して、肌の綺麗な眉目の美しい女ばかりをえらんで、側室にすすめていた自分の迂闊《うかつ》に気づいたのだ。  良人は、武芸に秀でた者に対して、ひそかに劣等感を抱いていたのである。  まだ十七歳の小娘が、苦もなく荒馬をとりしずめるのを視て、大きな衝撃を受けたのは、当然である。  ——あのような娘を、側室にすすめたら、よろこんでもらえるのではあるまいか?  妻女は、直感した。 「よろしかろう、間もなく、下僕が戻って参って、あの娘の素性を、報告いたす」  わしは、こたえてやった。  小者がもたらした小娘の素性は、わしらをおどろかせるていのものではなかった。  小娘は、お末といい、八王子の馬喰《ばくろう》の娘であった。父は先年亡くなり、兄があとを継いでいたが、馬市の用がいそがしく、代理に、お末が、馬三頭を曳いて、江戸へ出て来て、品川と本所と本郷の伝馬《てんま》問屋へ届けたあと、上野の賑いを耳にして、みすぼらしい身装を気にし乍ら、黒門を怯《お》ず怯《お》ずとくぐってみたのだ。  さいわいに、若い女も仮装が多く、お末の姿も、それと見えなくはなかった。素足に藁草履《わらぞうり》、脚絆をつけ、紺木綿の筒袖を、裾みじかにきて、馬の代金を入れた包みを、背負うていた。  丸ぽちゃの、小柄な、小麦色の肌をしたお末は、どこかの大きな商家の小間使いが、江戸へ奉公に出て来た時のいでたちにもどってみせた、とも受けとれたのである。  物心ついた頃から、馬の中でくらして来た娘であった。悍馬を、とりしずめる業《わざ》を心得ていたとしても、ふしぎではない。  ただ、とりしずめた場所が、数千人を集めた桜花の咲きほこる上野の山であったことが、お末の運命を変えることに相成った。  お末が、男子をしのぐ体格を持った、ひどい醜女《しゅうじょ》であったならば、その場かぎりの賞賛をあびただけで、おのれ自身も、はれがましい思い出をひとつのこしたにとどまったであろう。  いかにも可愛らしい顔だちをした、華奢《きゃしゃ》につくられた小柄なからだが、鮮やかな業を示したおかげで、病弱な旗本大身の心を奪うことに相成った。  わしは、吉之進が幕の中へもどって来るのを待って、 「お手前に、側妾《そばめ》を一人、世話いたそうか」  と、言いかけた。 「……?」  黙って、見かえす白皙《はくせき》細面の美男子に、わしは、笑って、告げてやった。 「お手前の胤《たね》を宿す女は、悍馬をとりおさえるほどの度胸と腕前を持っていなければなるまい。されば、仙石家の次代を継ぐ男子は、智脳を父から享《う》け、体力を母から享《う》けることに相成ろう」  三  咲いた桜に なぜ駒つなぐ  駒が勇めば、花が散る  誰が作ったか、この流行歌《はやりうた》は、桜花が散りかかった頃には、もう小児が、遊戯の間にも口にするようになっていた。  あばれ馬をとりしずめて、桜樹につないで、何処へともなく立去った小娘は、 「桜子」  と呼ばれて、市井の取沙汰のうちに、この世の者ならぬ、桜の精にされ、絶世の美女にされていたことだ。  その頃、お末は、わしのはからいによって、さる御家人の家で、行儀見習いをして居った。  旗本も六千石ともなれば、小大名をしのぐ格式を持つ。三河譜代、書院番組頭の身分は、外様《とざま》衆と、往還で行列を出会わせれば、これをしりぞかせる権勢《けんせい》を誇って居る。  その仙石家から、奥女中にと所望されて、八王子の馬喰が、どんなに面くらったか、想像にあまりある。渡された支度金は、稼業をすてて、一生寝てくらせるだけの高であった。  ところで——。  仙石家の奥向きにあっては、まことの事情を打明けられたのは、二人の年寄のみであった。  老女たちは、御家人の家から行儀見習いを終えて、あがって来た十七歳の末通女《おぼこむすめ》を、いかにして、春情に目ざめさせるか、顔を寄せて、相談に余念がなかったそうな。  笑止な話だが、老女たち自身が、末通女のまま、仙石家へ奉公し、いつの間にやら五十の坂を越えた女たちであった。色欲のいかなるものか、知る道理がなかった。桜子をいよいよ仙石家へむかえる日が定まってから、わしは、呼ばれて、老女二人に会った。  わしは、老女たちの真剣な相談を受けて、笑った。 「艶画淫書《えんがいんしょ》のたぐいを見せたところで、春情を催させることは、叶わぬ。宝珠の玉を光らせるのは、これを抱く男子の愛撫しか、ほかにすべはない。しかし、当家のあるじに、その技も体力もないとなれば、やむを得ぬ。……高い身分のさむらいの胤《たね》を頂くことが、どれほど女|冥利《みょうり》であるか、それだけを、教えこむがよかろう」  後日になって、きいたことだが、桜子を迎えるや、才女の夫人は、桜子に、馬の話をあれこれさせておいて、自分の方からは、千里を奔る天蹄の話をきかせ、さて、良馬を得るにはどうすればよかろうか、と問うた。  桜子は、にっこりして、 「名馬は、名馬からでなければ、生まれませぬ。血統が、いちばん大切でございます」  と、こたえた。 「では、千里を駆ける駿馬《しゅんめ》の種を受ける牝馬は、幸せというものですね」 「はい」  桜子は、こくりと頷いた。  春情を催させるすべは知らぬが、子種をもらわせるために、女たちの考えることは、大層露骨なものであった。  桜子は、末通女《おぼこむすめ》で、色欲のなんたるかを知らぬが、野生の営みを見ている筈であった。馬の交尾というものに対しては、なんの嫌悪感を抱いていないに相違ない。  桜子が、高い身分のさむらいの胤をもらうには、日頃見慣れたその姿勢をとらせるに如くはない、と密議《みつぎ》したのは、おもしろい。  男女の契りを知らぬ桜子に、こうするものだ、と教えれば、納得するであろう。女子が伏せの姿勢をとった絵図を示して、武家の交りはこうするもの、と申し渡せば、これにさからう理由は持って居るまい。年寄たちは、その初夜の方法を決めた。  なお、その時まで、吉之進には、桜子を屋敷に迎えたことを、知らせてはいなかった。桜花の中で鮮やかな手並みをみせた娘の印象を、吉之進にこわさせぬ配慮であった。  さて、今日は吉日という夜——。  桜子を湯殿に入れて、老女の一人が、肢体をくまなく洗い潔《きよ》めてやる時、湯気の中にほんのりと浮き立って居る色づいた肌を、吉之進に、さも偶然であるかのごとくのぞき視させたのは、できすぎた趣向というべきであった。  吉之進は、老女から、それが、あの花見の場所で荒馬をとりしずめた小娘である、ときかされて、思わず、 「うむ!」  と、唸ったそうな。  案ずるよりは、生むが易い、という。  桜子は、初夜の褥《しとね》に於て、気息をこらして、微動もせずに、ただ命じられた通りに、仙石吉之進の情けを受け容れた。  吉之進には、桜子が、その姿勢を、自らとるであろうことを、わしの口から伝えて置いた。夫人のたのみによって、わしは、苦笑しつつ、引受けたのだ。 「娘は、秩父山中の平家の落人部落に生れて育った者。男女が契る作法も、古式を守って居る由、娘も、親から教えられて居ると存ずる。自身からすすんで、古式の構えをいたしても、奇異とされぬように——」  わしは、もったいめかして、吉之進に告げておいてやった。  桜子は、寝所に入ると、さきに褥に就いていた吉之進に向って、 「お情けを受けまする」  と、挨拶《あいさつ》し、白綸子《しろりんず》の寝召《ねめし》を脱ぎすて、一糸まとわぬ裸身になると、掛具の裾から、あと退《すさ》りにすべり入って来て、ふっくらとした大きな白桃のような臀部を、吉之進の目の前に、揚げてみせたそうな。  この趣向は、吉之進に、生唾《なまつば》をのませ、心臓を高鳴らさせた。  その臀部へ、おのが下腹を押しつけた瞬間、吉之進は、生まれてはじめて、女子を征服する男子の快味で、全身が思わず、ぶるぶると顫《ふるえ》た、という。  桜子にすれば、お殿様の、お情けを受ける光栄で、臀部の奥からつらぬいて来る疼痛にも、歯を食いしばって、いじらしく怺《こら》えた。  吉之進は、満足した。  四  吉之進のような脆弱な体質の男子は、才女の夫人が、早く胤が欲しいままに、あれこれと智慧をしぼって、閨《ねや》の営みに工夫をこらせばこらすほど、逆に劣等感を催すことに相成る。  女体を満足させてやれぬ、ということが、いかに、ひよわな男にとって、屈辱であるか——それを、夫人は、気がつかなかった。  劣等感が、吉之進をして、房事《ぼうじ》から遠ざからせていたのだ。  桜子を与えらて、吉之進は、はじめて、征服感をあじわい、自信を持った。  犬匍いの裸形《らぎょう》へ挑みかかる快味は、吉之進に、夜を待ちかねさせた。  その月のうち、吉之進は、八度び、桜子の寝所をおとずれた。そして、桜子は、みごとに、その胤を宿したのであった。  さて、そこで、夫人と年寄二人は、鳩首《きゅうしゅ》密談した。  目的は、吉之進に、房事の愉しみをおぼえさせることではなかった。世嗣を得ることであった。桜子が妊娠した以上、ただちに吉之進から遠ざけねばならなかった。  閨の営みは、当然、夫人が、桜子に代らねばならなかった。  某夜、吉之進が、桜子の寝所に入ると、そこに待っていたのは、桜子ではなく、おのが正室であった。 「桜子は、懐妊いたしました。今宵《こよい》からは、わたくしを、お抱きなさいませ」  夫人は、そう言って、寝召を脱ぎすてて、桜子と同じ姿勢を、良人に見せたのであった。吉之進は、しかし、桜子の犬匍いには、欲情をそそられたくせに、夫人のそれには、嫌悪しか催さなかったと後日わしに告白した。  しぶしぶ、その臀部へ、下腹を押し当ててみたが、吉之進は、ついに、不能者であった。  女心というものであった。夫人も、嫉妬の情念はあった。桜子が身二つになった時、桜子を亡き者にしようという、残忍な決意がなされたのは、その時であったに相違ない。  桜子は、吉之進から遠ざけられ、年寄二人の厳重な監視下におかれることになった。  そして、夫人が懐妊した旨、家中に公表されたのであった。  夫人は、桜子が男児を生むことに、賭けたわけだ。  大名や旗本大身の奥向きは、庶民などの想像もおよばぬ世界だ。家中の面々と雖《いえど》も、そのなかのくらしは、窺知《きち》できぬ。  外界から隔絶《かくぜつ》した世界で、秘密裡に、一人の女に子を生ませて、これを正室が生んだことにするぐらい、さしたる工夫ではない。  妊婦が、人形のように、されるがままに、従ってくれるならば、なんの造作もない話だ。  囚徒《しゅうと》のように一室にとじこめられても、それが、胎教のためだと教えられれば、桜子に、懸念は起らなかったのだな。  おのが腹の中に、お殿様のお子が育っている。この感動が、桜子に、囚徒のくらしになんの苦痛もおぼえさせはしなかった。いや、お役目を無事に果すまで、老女たちが、一挙手一投足にまで配慮してくれるのを、そのまま有難く受けとった次第だ。  その間に、夫人の懐妊について、さまざまの行事がすすめられていた。  新《あらた》に産の間が設けられて、夫人は、そこに入っていた。産の間には、天井から紅白縮緬の二筋の産綱が下げられ、床の間には、塩竈明神の神符が祭られてあった。出産の時に、左手に握る子安貝も届けられていた。  五月に至って、夫人は、ふくらみもせぬ腹に、生絹八尺の着帯をいたした。その腹帯には、五大明王、七仏薬師の護符が縫い込められてあったが、明王も薬師も、さぞかし苦笑いをしたことであったろう。  ただ、夫人が、しなくてもよかったのは、起居に於て、妊婦の注意を加えることであった。これは、奥の一室にとじこめられた桜子が為さねばならぬことであったわ。  室内を、一日半刻ぐるぐる歩きまわること、腰を冷さず、目より上に手を挙げてはならず、寝姿も足をのばさず、頭は関枕にとどめ、夕餉《ゆうげ》には、生大根を一本かじるとか——。  まことの産室である桜子の部屋に、産室らしい品は、ただひとつ、南都法華寺からもたらされた巨きな犬張子が、床の間に据えられてあっただけである。  やがて——早くも、十月《とつき》十日の日が満ちた。  桜子の部屋には、ひそかに、押箱——俗にいう胞衣《えな》箱と生児の臍帯《せいたい》を処理する竹の小刀が、備えられたが、どうしたものか、桜子には、一向に陣痛の起る気配はなく、年寄たちを、いらいらさせた。  十月十日から、二十日も過ぎて、隣室にやすんでいた老女が、夢うつつに、赤児の泣き声をきいたように思い、目をさまして、しばらく、耳をすませていると、桜子の部屋から、ひくい声音《こわね》の子守唄が、きこえて来るではないか。  そっと、跫音《あしおと》をしのばせて、襖に寄って、覗き見た老女は、唖然としたものだ。  桜子は、褥の上に座って、赤児を抱いていたのである。  老女を呼びもせずに、分娩を済ませてしまっていたのである。頭をしばった紅白の縮緬だけが、まだ外されていないだけであった。  あわてて、入った老女に、桜子は、にこにこして、 「男のお子様でした」  と、告げたものであった。  さあ、大変であった。産の間の夫人が、遽《にわか》に、産気づいたことにしなければならなかった。  老女の一人が、玉襷をかけて、廊下を奔り乍ら、女中どもに、触れ声をあびせていった。その時にはもう一人の老女が、赤児を、産の間に、はこんでいたのである。  桜子が、赤児を抱くことができたのは、あとにも先にも、老女に奪われるまでの、ほんの四半刻あまりだけであった。  産湯《うぶゆ》をわかし、精米、扇子、筆などを捧げて来た女中どもに、老女は、男子誕生を告げた。中庭に控えていた庭番が、殿にそれを報せに奔った。  吉之進は、不覚にも、思わず、 「桜子、でかしたな!」  と叫んで、庭番に不審の表情をさせた。  老女は、臍帯を収めた押箱に、精米、扇子、筆を添えて持ち、吉之進が奥庭へ出て来るのを待って、吉方の箇処へ案内して、それらを埋めさせ、 「おめでとう存じまする」  と、祝った。  吉之進は、老女に、そっと、 「桜子は、丈夫であろうな?」  と、訊ねた。老女は、それにこたえず、 「奥方様が、嬰児《やや》様をお抱きあそばされているところを、ごらんなさいませ」  と、すすめた。  吉之進は 「その儀に及ばぬ」  と、拒絶して、居間へもどってしまったそうな。  五  万事、うまく、はこんだ。  夫人と年寄たちにのこされた仕事は、桜子をどうやって亡きものにするか、であった。  本来ならば、金一封に土産物を持たせて、八王子の兄の許へ送りかえすところであった。  しかし、そうすれば、仙石家の嗣子《しし》の出生の秘密は、洩れる危険がある。嗣子の生母が、いやしい馬喰の娘であることが、世間に露見したならば、仙石家の家門は、泥にまみれることに相成る。桜子をこの世から抹消するほかに、秘密保持の手段はなかった。  庶民の常識をもって、武家の内情を測ることはできぬ。  桜子は、夫人が白小袖の百日を済ませ、色直しの日を迎えるまでは、鄭重に扱われた。桜子が毒殺されるのは、宮参りの日と、ひそかにきめられ、その準備がすすめられていたのである。  しかし、桜子の運勢は、強かった、といえる。  仙石家に、意外な出来事が起ったのだ。  依然として囚徒のくらしをつづけていた桜子の心中にあるものは、勿論、わが子のことばかりであった。  分娩と同時に、もぎとられたことに不平があったわけではない。おのれは、腹をお貸し申し上げたにすぎぬ。お世継ぎ様とおのれとでは、ケタはずれに、身分の相違がある。会わせてもらえないことに、耐えねばならぬのが、さだめであると、あきらめてはいたが、母としての本能をまで抑えることはできなかった。  夜半に、そっと、廊下を忍んで行って、遠く産の間からもれる泣き声をきくことだけが、唯一の愉しみであった。つよい泣き声の時は、安堵した。よわよわしい泣き声をきくと、心配でならなかった。  そのうちに、百日を過ぎようとした頃、お世継ぎ様が、熱を出された、ときいて、桜子は、居ても立ってもいられなくなった。  桜子にできるのは、神仏に祈ることだけであった。  深更、桜子は、そっと忍び出て、奥庭の南隅にある井戸端に行き、寝召を脱いで、かたえの百日紅《さるすべり》の枝へかけておいて、水垢離《みずごり》をとった。  そこは、絶対に人の近づく場所ではなかった。桜子は、二布《こしまき》までもとって、冷水を頭からあびたのである。  三杯目をあびた時であった。突如として、背後から躍りかかって来た者があった。  桜子がもがいたはずみに、襲うた者の不運があった。水で濡れた石を、足がすべった。逆に、桜子の方は、全裸で濡れていたことがさいわいした。つるりと、曲者の腕の中から脱出した桜子は、夢中で、釣瓶《つるべ》をつかんで、力まかせに、頭を擲《なぐ》りつけた。その時、曲者の方は、すべって尻もちをついた瞬間、尾てい骨をしたたか打っていたのだな。  桜子は、曲者が悶絶するのを見とどけてから、すばやく寝召をまとい、中庭へ急ぎ、庭番を呼んだ。  あきれたことに、町奉行所へ曳《ひ》かれた曲者の正体が、当時、御府内の大名旗本屋敷を片はしから荒しまわっていた盗賊「むささび」であることが判明した。軽身自在のおそるべきこの盗賊は、町奉行所の面々が、いかに躍起になっても、ついに、そのかくれ家さえつきとめることができずにいたのである。二度、三度、屋敷内や往還上で包囲したことはあったが、その四肢に縄も棒もふれさせるいとまもなく、遁走《とんそう》されてしまっていたのである。  怪盗「むささび」は、奉行所の白州で、 「月の光の中で、素裸の女を見て、ついむらむらとなったのが、あっしの不覚でございましたが、なにしろ、天女のように滅法綺麗に思えたので、あの場合、男なら誰だってとびつきたくなります。べつだん、悔いちゃ居りません」  と、述べたことだった。  怪盗「むささび」を捕えたのが、流行歌《はやりうた》に唄われている勇婦桜子であった、という噂は、江戸中をわきたたせた。桜子の勇み姿は、浮世絵の一枚絵にまでなって、とぶように売れるあんばいと相成った。  こうなれば、仙石家奥向きでは、もはや、毒殺など、思いもよらぬことになった。 「左様。そこまでは、めでたかった」  夕日の色が、いっとき美しくさして来て、眼下の下谷の町が影になり、東叡山桜花はかえっていちだんと白く浮き立ち、そしてその桜花の中から、抜け出している堂塔《どうとう》の屋根が、眩しく輝いて、いかにも荘厳な夕景色になったのを、其庵老人は、じっと眺めやり乍ら、呟くように言った。 「桜子が、名を挙げたために、お家騒動が起りましたか?」  町人が、問うた。 「いや、そうではなく、仙石吉之進が、桜子を一目でも見たいと世間が騒ぐのに、少々得意になって、これに小姓の装《なり》をさせ、馬の口をとらせて外歩きをはじめるようになったのが、禍《わざわ》いしたのだな。いまはもう、影をひそめたが、当時、市中には、旗本奴と町奴が、覇《は》を競《きそ》うて、横行して居った時代だ。吉之進としても、武勇にあこがれること人一倍の男であってみれば、荒馬をとりひしぎ、日本一の盗賊を捕えた勇婦を供につれて、これ見よがしにねり歩きしてみたくなったのも、無理はなかったろう。勇婦をともなったおのれ自身も、いつの間にやら、相当なつわものになった気分であったろう。それが、禍いしたのだ」  六  某日、浅草寺《せんそうじ》雷門前を、桜子に馬の口をとらせて行きすぎようとしたところを、町奴にとりまかれて、嘲罵《ちょうば》をあびせられた。  吉之進が、かっとなって、抜刀したところを、町奴の一人は、馬脚を棒で払った。ぶざまに地べたにころがった吉之進が、よろめき立った時、桜子は、町奴数人に手足を掴まれ、あられもない格好になっていた。 「おのれ!」  吉之進は、無我夢中で、斬りつけたが、たちまち、蹴倒され、四つン匍いにさせられ、その背中へ、三太刀ばかり加えられた。  桜子は、必死の力で、町奴どもの腕力からのがれると、俯伏せになった吉之進の背中に抱きついた。その時、桜子は、帯を切られて、半裸の姿になっていた。  町奴の一人が、わめきたて乍ら、猿臂をのばして、その衣裳を、むしり取ったのは、あまりに残忍な振舞いであった。多分、そいつは、「むささび」の乾文《こぶん》ででもあったのだろう。  役人たちがかけつけた時、吉之進は、もう、虫の息であった。  傷はすべて、背中に負うていた。向かい傷は、名誉だが、背中の傷は、武士の最も恥辱とするところである。  桜子は、役人たちが、吉之進をかつぎあげようとすると、必死になって、 「お待ち下さいませ」  と、とどめ、その脇差を抜くと、吉之進に持たせた。 「お殿様! 旗本の面目を保たねばなりませぬ。切腹なされませ!」  桜子は、このまま吉之進が絶命したら、検死の役人の報告によって、家名断絶する、と思ったのだ。  せっかく、生んだお世継ぎ様は、どうなる?  それを考えると、吉之進に、切腹してもらって、旗本武士の面目を保ってもらわねばならなかったのだ。  しかし、吉之進には、切腹する力はなかった。  桜子は、吉之進を座らせ、その手に持たせた脇差を、腹へぷっつり突き立てておいて、かたわらの地べたに落ちていた太刀をひろいとるや、背後へまわって、 「えい!」  と懸声もろとも、頸へ振り下した。  女の一念のおそろしさであった。首は、見事に刎《は》ね落された。  湯文字一枚の裸女の介錯《かいしゃく》とは、まさに、前代未聞であった。  桜子は、三度び、その勇をふるって、世間を、あっといわせたのだ。 「で——仙石家は、無事でございましたか?」  町人は、訊ねた。  其庵老人は、帰途につくべく、やおら、床几から腰を上げ乍ら、こたえた。 「介錯人があまりに有名でありすぎたことが、禍《わざわ》いであったな。裸女に首を刎《は》ねられた旗本が、家門をのこすことは、許されなかった」  老人は、歩き出した。 「勇婦の墓は、八王子の古刹《こさつ》にあるが、いまは、忘れられて、詣でる人もない」  側妾《そばめ》三代・お万篇  一  七十年におよぶ騒動の発端《ほったん》は、十六歳になる勝気な姫君が、絶世の美男といっても、すこしも誇張にならぬ程の若い幕臣《ばくしん》を、見そめたことから起った。  見そめたのは、米沢藩主三十万石・上杉弾正少弼定勝《うえすぎだんじょうしょうひつさだかつ》の女三姫《むすめみつひめ》であった。見そめられたのは、|高家・吉良上野介義央《こうけ・きらこうずけのすけよしなか》であった。  上杉邸において、厨膳《ちゅうぜん》に調する|魚鳥・蔬菜《ぎょちょう・そさい》の披露される席に於てであった。  当時——。  江戸にあって、江戸城はじめ大名屋敷では、泰平の気運に乗って、容儀服飾《ようぎふくしょく》はじめ、公私両面にわたって、規範法則がつくられかけていた。  容儀服飾はようやく、京都公家の模倣がいたについていたが、まだ、飲食の方は、きわめて低度であった。  戦国が程遠くない時世であり、獣肉をくらうことは平気であった。四谷の宿駅には、猟師の市も立って、猪《いのしし》、狐、狸《たぬき》などを、皮と肉をべつべつに売っていて、すぐわきには、その肉をぐつぐつ煮て、丼《どんぶり》売りする屋台も出ていた。また、赤犬などは、たとえ飼い主があっても、雲助人足のたぐいは、これをとっつかまえて、擲《なぐ》り殺して、食っていたのである。獣肉が美味であることは、わかりきっているので、旗本たちも、なかば公然と、それを食膳にのせていた。  そこで、公儀では、儒学の教えるところを文治の方針にしている上から、獣肉などを武家がくらうことを制するために、厨膳に調する魚鳥・蔬菜を、季節毎に定めようとしたのである。  正月から四月までは、鱒《ます》・生椎茸《なましいたけ》。土筆《つくし》・防風《ぼうふう》は二月からとする。相黒|蕨・蓼・生姜《わらび・たで・しょうが》は三月からとする。四月から食膳に供してよいものは、鮎《あゆ》、鰹《かつお》、根芋《ねいも》、筍《たけのこ》、茄子《なす》、枇杷《びわ》とする。梅桃《ゆすらうめ》と白瓜《しろうり》は五月からとする。甜瓜《まくわうり》、大角豆《ささげ》は六月から、鴨と林檎は七月からとする。鶴、鮭、柿、芽|独活《うど》、松茸、葡萄《ぶどう》、梨は、八月から十一月までの四箇月。鴨、雉、蜜柑、九年母《くねんぼ》は九月から、鮟鱇《あんこう》、鱈《たら》、秋刀魚《さんま》は十一月から、白魚は十二月から喰べてよい。  ざっと、こういうあんばいに、季節毎に、武家が口にするものを、定めたのであった。  当然、料理法も、教えることになった。  高家・吉良上野介|義央《よしなか》が、その任にえらばれた。上野介義央は、幼少の頃から、博覧強記の誉れが高く、営中礼式の掌典《しょうてん》を職事《しょくじ》とする高家になるために生れて来たような人物であった。また、その風貌は、宮廷からの使節を接待したり、日光へ代参したり、大名衆に礼儀作法を教えるにふさわしかったのである。  上野介義央は、その時まだ二十歳であった。  三箇月の猶予を乞うた上野介は、自身で、日本全土をかけ巡って、その土地土地の魚鳥・蔬菜の料理法をきき、これを一冊の帳面にして、帰府した。そして、まず、江戸城の御膳所で、これを教えた。次いで、御三家はじめ、各大名衆の屋敷をまわって、披露したのであった。  食事に関することであったので、どの屋敷でも、夫人、姫君をはじめ、女中がたが、席につらなった。  はじめて接する若い高家の際立った美男ぶりに、すべての女子《おなご》衆は、目を奪われ、心を奪われた。したがって、上杉定勝の女《むすめ》三姫が、上野介を見そめたのは、なんのふしぎもなかった。  ただ、他の姫君たちは、心を奪われたものの、それはその座のことにとどめたのにひきかえて、三姫《みつひめ》は、その夜、生母の千の方に、 「わたくしは、嫁《とつ》ぐならば、吉良義央殿と、心にきめましたゆえ、左様おとりはからい下さいませ」  と、申し出たのであった。  三姫は、季女《すえむすめ》であった。母の寵愛を一身に集めていた。父定勝はすでに逝き、当代は、三姫の兄|播磨守《はりまのかみ》綱勝のものになっていた。その実母である千の方は、上杉家を左右する実力者であった。千の方は、正室ではなく、側女《そばめ》であったが、当主のお腹様ともなれば、正室などあってなきがごとく、奥向きの権勢をわが一手におさめるとともに、藩政にも口を出す羽振りになっていたのである。  いわば、千の方は、成り上りであった。  したがって、地位、栄誉に対する異様な関心を示した。  千の方は、女を三人生んだが、姉二人はいずれも、大名の奥方になっていた。  高家は、大名ではなく、身分こそいかめしいが、職高はわずか千五百石にすぎない。  千の方は、色をなして、三姫の申し出を、蹴った。  三姫は、母の凄《すさま》じい剣幕《けんまく》に、一言も言いかえさずに俯向いていた。千の方は、三姫が、納得して退出するものとばかり、思った。  夜明け頃、三姫の姿が、寝所から消えた、という報せがあって、千の方は、愕然となってはね起きた。  三姫は、素裸になって、裏御殿の庭の池に胸までつかっていた。  奥向《おくむ》きとは劃然《かくぜん》と分けられ、女中たちが、出ることは禁じられている庭であった。  一糸まとわぬ姫君を、家臣がとび込んで、ひきあげることはできなかった。  当主綱勝が、池ぎわへ出て来て、説得して、ようやく、三姫は、うなずいた。  急いで、池畔《ちはん》へ、幔幕《まんまく》を張りめぐらして、三姫を、上らせ、衣裳をまとわせた。  二  三姫は、吉良上野介義央の婦《つま》になることに成功した。それから、四年後に、三姫は、長男三郎を生んだ。  千の方は、孫の顔を見にやって来て、うれしげに、抱きかかえていたが、急に、ひきしまった面持になると、 「このお子を、上杉にもらいたいものよの」  と、言った。 「え?」  三姫は、びっくりして、母の顔を見かえした。 「御当主には、お子がおできなさらぬ」  上杉綱勝は、すでに、二十六歳になり、正室に、会津藩主保科肥後守正之《あいづはんしゅほしなひごのかみまさゆき》の女《むすめ》春子を迎え、他に側妾三人がいたが、いまだ、子供が生れていなかったのである。  綱勝は、生来|虚弱《きょじゃく》な体質で、閨房《けいぼう》の営みにあまり興味を示さなかったのである。  なお、その上に、綱勝が、衆道《しゅうどう》趣味であることを、千の方は、知っていた。  綱勝は、奥向きには滅多《めった》に泊りに来ないで、表御殿で、起居し、児小姓《ちごこしょう》の福王寺八弥という美童に夜伽《よとぎ》をさせていたのである。  千の方は、いくたびか、綱勝に忠告していたが、このことだけは、自分の力で、どうすることもできなかったのである。 「御当主には、もう、お子はできなさらぬかも知れぬ。……あるいは、このお子が、上杉家をお継ぎなさることに相成るのであろうかの」  千の方は、そう言った。  三姫は、母が帰ったあとで、わが子の顔を見に来た良人の上野介へ、その言葉を伝えた。  上野介は、秀才らしい冷たい薄ら笑いをうかべて、きいていたが、 「そなたは、どうだ? 貧乏高家を継がせるよりも、米沢三十万石の跡目にした方が、よいのではないか?」  普通の妻ならば、「いいえ——」とかぶりを振って、良人の家に花を持たせるところであったろう。  三姫は、平然として、 「はい。その方が、よろしゅうございます」  と、こたえた。 「そなたが、のぞむならば、早速に、仮養子の手続きをとっておいたら、どうであろう」  仮養子、というのは——。  当時、大名の慣例として、子のない者は、在府の期間がおわって、国許へ帰る際、もし万が一、在国中に、自分が不慮の死に遭った場合のことを考慮して、養子を約した者の名を密封して、老中の手許にまで、提出しておいたのである。無事に、出府した時には、その密書を返してもらうことになる。  但し、誰人も、自分が二年や三年で死ぬとは思っていないので、これは、形式的に、親族中の一人を、仮に申告しておくにすぎなかった。  しかし、実際に、死んだ場合は、これは遺言となる大切な密書なので、老中方では、決して開封せず、本人が無事に出府するまで、保管しておくのであった。あるいはまた、出府しても、わが家に継嗣《けいし》のことで騒動が起るという心配を持った者は、そのまま、老中に密書を預けておく場合もしばしばみられた。 「それがよろしゅうございます。早速に、母上に、お願い申しましょう」  三姫は、こたえた。  上野介は、冷たい視線を、妻に当て乍ら、  ——母親に似て、相当の悪女めが……。  と、内心思っていた。  上野介の美男ぶりに夢中になって、嫁いで来た三姫も、千五百石のくらしぶりには、次第に不服顔をするようになっていたのである。  三  さて——。  上杉家に於ては、綱勝の正室春子ならびに、三人の側妾は、千の方から、綱勝をして房事にいそしませぬ不甲斐《ふがい》ない女子たち、と憎まれ、当りちらされていた。  しかし、春子も側妾たちも、いかに誘っても応じて来ない綱勝を、首に縄をかけて、寝室にひっぱって来るわけにいかなかった。  側妾たちは、正式の行事には列席しないので、千の方と顔を合せる機会はすくなかったが、正室である春子は、三日とへだてずに、席に竝《なら》ばなければならず、そのたびに、陰険な虐《いじ》められかたをして、しだいに、痩せて、容色もおとろえて来ていた。  上杉家上屋敷に、新に茶寮《さりょう》が設けられ、親しい諸侯が招かれて、点茶《てんちゃ》の会が催された時、春子の父保科左中将正之もやって来て、ひさしぶりに、わが娘に会って、そのやつれかたに、おどろいた。  別室を所望して、春子と二人きりになると、保科正之は眉宇《びう》をひそめ乍ら、 「嬰児《やや》ができぬので、そなたは、つらいことになっているのではないか?」  と、訊ねた。  春子は、俯向《うつむ》いて、返辞をためらった。 「かくさずともよい。播磨守は、病弱ゆえ、奥へ泊るのはすくないのであろう。それを、義母《はは》殿が、そなたのせいにして、当るのではないか?」  正之は、なにもかも、見通していた。  春子は、黙って、微《かす》かに、うなずいた。 「ふびんだの。つらかろうが、堪えるがよい。嫁したからには、この屋敷よりほかに、そなたのすみかはない」 「はい——」  春子は、泪《なみだ》ぐみつつ、こたえた。  会津藩主二十三万石保科左中将正之は、二代将軍秀忠の末子である上に、四代将軍家綱の後見役であった。  門地ならびに権勢《けんせい》は、当代に比肩《ひけん》する者はなかった。また、君子人としても、水戸宰相光圀、池田新太郎光政、阿部豊後守忠秋などと、寛文の七聖人と称《しょう》されていた。  しかし、いかに、謹厚厳正な君子人も、後宮の女たちの反目|嫉視《しっし》、そして、嫁いだわが娘の不運などを、どうするすべもなかった。  当時の慣例によって、正之も、正室のほかに、側妾を四人蓄えていた。  正室は、内藤佐馬助政長の女《むすめ》であったが、若くして逝《い》ったので、側妾の中から、上賀茂の社家藤木織部の女お万を、継室にしていた。のこりの側妾は、尾州浪人沖なにがしの女お富貴、京生れのおしお、そして旗本御家人の女おかやといった。  逝った正室には、子はなく、継室お万の方に、長門守正頼《ながとのかみまさより》(十八歳で逝去《せいきょ》)、筑前守《ちくぜんのかみ》正経、新助|正統《まさずみ》、そして春子と、三男一女があった。お富貴の方には、正容という怜悧《れいり》な子があった。おしおの方には、松子、宮子の二女があった。  保科正之の失敗は、三人の男子を生んだ手柄によって、お万を、正室にひきあげたことであった。  お万は、おそるべき嫉心の持主であった。  正室にひきあげられるや、たちまち、妬悍《とかん》の性情をむき出して、正之が、お富貴、おしお、おかやの許へおとずれるのを、ことごとくさまたげるようになったのである。  正室と側妾とでは、世間に対する立場に、大層な差がある。妾は、その字が示すように「立っている」女である。すなわち、古く中国に於ては、妾は、いかなる宴席でも、椅子《いす》が与えられず、終始立っていたのである。  正室が、病弱でひきこもるとか、お人好しである場合は知らず、その権限《けんげん》を振舞《ふるま》えば、側妾は、自分の立場にあまんじて、越権は許されぬ。まして、正室が妬悍の婦で、横暴ならば、側妾は、生きた心地もしなかった。  お富貴、おしお、おかやは、ともに、気だての優しい女であったので、お万の横暴に抵抗すべくもなかった。  古今東西、いかなる英傑《えいけつ》も、斯様《かよう》な多角関係のただ中に置かれては、相当な苦労をせざるを得ない。  程朱《ていしゅ》の学を尊信《そんしん》し、山崎闇斎を聘《むかえ》て、宋学の正統を会津の藩校に伝えた儒学気質の保科正之は、それだけに、かえって、後宮の陰湿《いんしつ》な空気には、堪えられなかった。  近頃は、お万の方のところへはもとより、他の側妾たちの許へもおもむかず、国許にも、准妻を置いていなかった。  春子は母お万の方に似ず、優しい気質の女であった。  正之は、わが家の奥向きの状態に堪《た》え難《がた》い思いをしているだけに、上杉家の奥向きのさまも、手にとるがごとく、判った。春子が、いかに、千の方から虐待されているか、想像ができたのである。 「お松が、近く、嫁ぐ」  正之は、話題をかえた。 「まあ、それは、お目出度《めでと》う存じまする。どちらへ、お輿《こし》入れなされます?」 「加賀だ」 「それは、この上のおよろこびはございませぬ」  松子は、支那流にいえば、第三夫人のおしおの子である。それが、加賀百万石の継嗣・前田綱紀《まえだつなのり》と婚約がととのった、というのである。  会津邸では、目下、輿入れの準備に忙しい。  春子は、すなおに、異母《いぼ》妹の幸せをよろこんだ。 「お父上に、お願いがございます」 「なんじゃな?」 「お輿入れ前に、いちど、松どのと、お別れの対面がいたしとう存じます。おとりはからい下さいませぬか?」  春子は、松子と、二つちがいで、幼い頃は、仲よく遊戯などにうち興じた仲であった。 「それは、お松もよろこぼう。輿入れの前に、お松を、|こなた《ヽヽヽ》へ参らせるか、そなたが参るか、いずれかにいたそう」  そのことが、とんでもない悲劇を起すとは、神ならぬ身の正之が、知るよしもなく、気がるに承知した。  正之は、そのあとで、書院で綱勝にあらためて対面した。さりげない四方山《よもやま》話ののち、正之は、何気ない口調で、 「お許は、子宝にはめぐまれぬ御仁であろうか?」  と、言った。 「そのことで、常づね、母と口争いをいたして居りますが、こればかりは……」  綱勝は、目を伏せて、口ごもった。  口髭《くちひげ》など一本もない、つるりとした蒼白い皮膚は、いかにも病的で、いささか薄気味がわるい。勇猛の武将を、始祖《しそ》に仰《あお》ぐ大名とは、とうてい思われぬ影の薄い男である。  正之は、綱勝の股間《こかん》を調べてみたい衝動をおぼえた。  すると、綱勝は、岳父《がくふ》に看破《かんぱ》されたことに気づいたように、緊張した表情を擡《もた》げると、 「それがし、かねてより、いちど、おことわりしておかねばならぬ、と考えて居りました。恰度よい機会なので、申上げておきます」  と、言った。 「なんであろうな?」 「それがしは、長生は望み得ませぬ。それで、一昨年国許へ帰るに際し、仮養子の名を密封して、老中方へ差出し置きましたが、その仮養子を、御当家|正統《まさずみ》殿にいたしました。この儀、お許し下さいますよう——」 「それは、いかぬ」  正之は、きびしい面持で、かぶりを振った「わしは、かねてから、他姓の者が家を継ぐのを反対いたして居る。養子は、必ず同姓の者が継がなければならぬ、と考え居る。弟……がなければ、従弟、それもなければ、家中の中から、たとえ遠縁でも、当主たるにふさわしい子弟をえらんで、跡目《あとめ》を継がせる。これが、正しい処置であろう、と存ずる。……他姓の者が、横あいから入って来て、家を継ぐことは、騒動を起す原因となりやすい。上杉家を継ぐ者は、上杉の血を享《う》けた、上杉の姓を名のって居る者でなければなるまい。……新助は、いかぬ」 「……」 「新助を仮養子にした密書は、老中より、返してもらって頂こう。あらためて、家中より、ふさわしい若者をえらんで、仮養子にされい」  朱子学を崇信《すうしん》している正之は、その主張を、その学問に根拠しているために、頑固であり、一歩もゆずらなかった。 「では、もう一度、勘考つかまつります」  二人は、自分たちの会話を、襖《ふすま》をへだてた次の間で、ひそかにぬすみぎきしている者がいることに、気がつかなかった。  四  次の日の夜、綱勝は、春子の寝所を、訪れた。 「今夜より、ここへかようぞ」  綱勝は、笑って言い、下座に控えている伽《とぎ》の女中に、去るように命じた。  女中は、ためらった。主君が訪れようと、訪れまいと、そこに控えて、宿直《とのい》をするのが、女中のつとめであった。主君が訪れて、房事を営むのを、目撃させられることは、つらいつとめではあったが、これがしきたりとなっている以上、女中個人の心理状態など問題にされぬのである。 「退がらぬか!」  綱勝は、ためらっている女中を叱咤《しった》した。  女中は、やむなく、退出して行った。  綱勝は、自ら、灯を消して、暗闇にすると、褥《しとね》に入って来た。 「義父《ちち》上に、玉房秘訣を教えて頂いた。そなたに、きっと嬰児《やや》を生ませる」 「うれしゅう存じまする」  春子は、胸をはずませた。 「そなたは、わしのするがままに、じっといたしているがよい。動いてはならぬ。口もきかぬがよい。わかったな?」 「はい——」  綱勝は、春子をいったん抱きかけて、 「お——忘れて居った」  と、起き上った。 「どちらへ——?」 「口をきいてはならぬ、と申した」 「でも、明りをつけませぬと、お足もとが……」 「かまわぬ。じっといたして居れ」  綱勝は、出て行った。  ほどなく、戻って来た綱勝は、終始《しゅうし》無言で、春子を愛撫《あいぶ》しはじめた。 『……臥して定まる後に、女をして仰臥せしめ、足を展《の》べ、臂《ひじ》を延ばしむ、偃松《はいまつ》のまさに、邃谷《すいこく》の洞前《どうぜん》にあるごとし。女をして、上唇を含ましめ、津《しん》液を茄《ひ》く。あるいは、緩やかにその舌を噛み、あるいは微かに、その唇を噛む。肚乳の間を撫で拍《たた》き、さらに、金溝《きんこう》を|摩※[#手へん+沙]《まさ》す……。千嬌すでに申《かさ》ね、百慮《ひゃくりょ》ついに解く。女まさに、婬津、丹穴に堪えて、幽谷をうるおす。すなわち、九たびは浅く行い、一たびはこれを深くするの法を行い、ここにおいて、縦《たてざま》に柱《つ》き、横《よこざま》に挑み、傍に牽《ひ》く』  洞玄子が指示するところを、男は、ゆっくりといとなみ、おわるとやおら起き上って、再び出て行った。  戻って来た時、綱勝は、すぐに灯をつけた。春子は、目蓋《まぶた》を閉《と》じ、両手を胸で組んでいた。 「そなたは、このまま、しずかに、やすむがよい」  春子は、おどろいて、綱勝を仰いで、何か言おうとすると、 「口をきいてはならぬ、と申したぞ」  綱勝は、微笑して、踵《きびす》をめぐらした。  しかし、廊下へ出た綱勝の顔は、苦汁を嚥《の》んだように、しぶいものになっていた。  綱勝が戻って来た表御殿には、寵童《ちょうどう》の福王寺八弥が、俯向いて坐っていた。  綱勝が座に就くと、八弥は、平伏した。 「申しわけございませぬ」 「わしが、命じたことを、そちは、やったまでだ。詫びるには及ばぬ」  綱勝は、そう言いつつも、流石《さすが》に、こわばった顔面をほぐす余裕を持たなかった。 「なに、懐妊《かいにん》した?」  吉良上野介は、秀麗な眉宇をひそめた。 「まことだな、それは?」  上野介は、幼児を抱いている妻を、瞶《みつ》めた。 「はい。昨日、母上から、およろこびの手紙が参りました」  三姫は、能面のように、白い冷たい表情をしていた。上杉家では、春子が、今月に入って懐妊の徴候《ちょうこう》があり、大変なさわぎになっている、という。 「それは、まずは、めでたい、というわけだな」 「心から、そうお思いではございますまいね?」  三姫は、上野介を、睨むように、眸子《ひとみ》を光らせた。  上野介は、妻のとげとげしい顔つきを、じっと、見かえしていたが、不意に、笑い声をたてた。 「なにが、おかしいのですか?」  三姫は、むっとなって、問うた。 「いや——。べつに、おかしゅうはない。ただ、笑ってみたくなっただけだ。……この子は、やはり貧乏高家の跡目《あとめ》に、生れたのだ」  上野介が、言うと、三姫は、柳眉をキリキリと、つりあげた。 「懐妊したからというて、ぶじに生れるとは、限りませぬ。それに、男の子が必ず生れるとも限りませぬ」 「呪わぬがよい。三十万石の太守になるがよいか、千五百石の高家になるがよいか——いずれが、幸せか、わかったものではない」 「いいえ——」  三姫は、かぶりを振った。 「男子《おのこ》と生れたならば、一人でも多くの家来を持った方が、生甲斐と申すもの。千五百石の微禄など、上杉家の血を享けた者にとって、あまりに可哀そうに存じます!」 「ふむ。それほど、三十万石の太守にしたいか?」 「しとうございます!」 「さても、女子の執念《しゅうねん》とは、したたかなものよ」  上野介は、そう言いのこして、さっさと去って行ってしまった。  五  万治《まんじ》元年七月二十六日が、黄道吉日《こうどうきちにち》にあたり、保科正之の女《むすめ》松子が、前田加賀守綱紀に輿入れする日にえらばれた。  将軍家から、支度金一万両が下付されたのをはじめ、諸侯から、ぞくぞくと、祝いの品が届けられた。  吉良上野介が、祝いの品を携《たずさ》えて、会津藩上屋敷を訪れたのは、三日前であった。  上野介は、正之に、祝儀《しゅうぎ》を述《の》べたのちに、式次第を教授するため、お万の方と対面した。上屋敷の奥向きは、継室お万の方の支配下に置かれていたのは当然であるが、松子の生母おしおは、婚約が成るや、逆に、会津へかえされてしまっていた。お万の方のとりはからいであった。  正之は、娘の晴れ姿を、生母にも見せてやれ、と言ったのだが、お万の方は、肯《き》き入れなかったのである。 「いやしくも、百万石の御家へ嫁ぐ女《むすめ》が、妾腹の子であることを、婚儀当日まで公然といたしておくのは、当家の恥に相成りまする。世間が知ると知らぬにかかわらず、お松は、正室たるわたくしの子として、屋敷から送り出さねばなりませぬ。母親が二人いることは許されませぬ。依って、しお殿は、国許へ身を移されなければなりませぬ」  そう言って、お万の方は、おしおを、無理矢理に、江戸から追い出したのであった。  上野介は、お万の方へ、式次第を、こまかく教えたのち、いかにも何気なさそうな口調で、 「人の運不運は、判らぬものでござる。お松殿が、百万石の大家《たいけ》の正室に迎えられるとは、まことに、おめでとう存じます」  と、言った。  その言葉の裏には、正室であるお万の方の女春子が、三十万石の大名の夫人であることがあわれだ、という意味が含まれていた。  お万の方の顔の色が、蒼ざめるのを、上野介は、すばやく、みとめた。  お万の方は、おしおの生んだ松子が、百万石の加州の正室になるのが、無念のきわみであったのだ。この縁談が、将軍家の思召とあっては、邪魔だてはゆるされなかったが、松子の好運を呪詛《じゅそ》する修羅の炎は、輿入れが迫るにつれて、熾烈《しれつ》になっていたのである。  お万の方は、この慶事《けいじ》を、破棄《はき》できるものならば、自分の生命をすこしぐらい縮めてもいい、とさえ思っていたのである。  自分の生んだ男子のうち、次男筑前守正経が、すでに、会津二十三万石を継いで、藩主になることがきまっているのであり、春子は、このたびめでたく懐妊して、男子を生めば、上杉三十万石の主人になれるのであった。第三者からみれば、満ち足りた座に在る出世者であった。  しかし、女の我欲は際限がなく、それに嫉妬《しっと》が加わると、継子《ままこ》の好運は、とうてい我慢がならぬのであった。  正室の娘であり、姉である春子が、三十万石の身代の大名の妻であり、側妾の娘であり、妹である松子が、百万石の大大名の夫人になる——その差を考えると、お万の方は、松子を殺したい衝動に、いくたび襲われたか知れなかった。  お万の方は、かたわらに控えている三好《みよし》というお附き老女へ、瞋恚《しんい》の焔の燃える眼眸《まなざし》を、チラ、とくれた。  お万の方は、三好にだけ、自分の本心を打明けて、お松など急病にでもかかればよい、と口走っていたのである。  上野介は、お万の方と三好の目くばせのしあいを、見て見ぬふりをして、 「あと三日にせまったことでござれば、くれぐれも、お松殿のからだ加減に、お心を配って頂きとう存じます。当日、風邪《かぜ》発熱などということに相成れば、一大事でごさる。お松殿には、式次第など、一切知らせず、そっとしてお置きなさるよう、釈迦《しゃか》に説法とは存ずるが、お願いつかまつる。……病気が大敵でござる」  と、言いのこした。  二人の女は、黙って、頭を下げただけであった。その無言が、こちらの暗示に、うまくひっかかった証拠だ、と上野介は、自信を持った。  上野介が、会津藩邸でなさねばならぬことは、もうひとつあった。  その座敷を出た足で、上野介は、まっすぐに、松子の住む局《つぼね》へおもむき、松子附きの老女野村を、そっと呼んだ。  野村は、松子が誕生の時から、附き添うて、病弱な生母おしおにかわって、育て上げた忠義一途の女であった。  この野村が、松子のそばから片時もはなれずに、こまかい神経をくばって、守護していたので、お万の方も三好も、邪念の魔手をのばせなかったのである。上野介は、沈痛な表情をつくって、野村に、ささやいた。 「老婆心《ろうばしん》から、申しておく。今日、明日、明後日の三日間こそ、そなたが、肝胆《かんたん》を砕《くだ》いて、お松殿を、守りぬかねばならぬ期間と心得る。殊に、食事については、いかに、心を配っても、配り足りる、ということはない。当日、お松殿のからだを、最も健やかな状態に置くも置かぬも、そなたの心配りひとつにかかって居る。……たとえば、明日は、姉の春殿が、別れに参られる由だが、ともに食事をする場合なども、充分に注意せねばならぬ。……判ったであろうな。いかなる料理といえども、万が一の中毒がないとは申せぬ。よいな?」  くどく、念を押されて、野村は、必死な面持で、承知したものであった。  六  松子がいよいよ明日輿入れ、という日、米沢藩主上杉綱勝夫人春子は、婚儀を祝うために、芝三田の保科家上屋敷を訪れた。  暇《いとま》乞いの対面は、なごやかに、行われた。久しぶりに顔を合せた春子と松子は、話が尽きなかった。  正之も、お万の方も姿を見せずに、二人きりにしてくれたのも、座敷をなごやかにした。  小半刻過ぎて、饗応《きょうおう》の膳が、はこばれて来た。まず、妹の松子の前に据《す》えられ、次の膳が、姉の春子の前に置かれた。  はこんで来た女中がひき退ると、入れかわって、松子附きの老女野村が現れて、 「おそれ乍ら、お暇乞いとは申せ、姉君さまが、わざわざお越したまわった上からには、お膳は、姉君さまよりさきに、さしあげまつるが作法かと存じまする」  と、言った。  春子は、野村が申し出たのを、尤もな言い分だとうなずいて、遠慮する妹と、饗膳を交換した。  祝儀をおわって、春子は、外桜田の上屋敷へ帰って行ったが、その帰途の駕籠の中から、腹痛をおぼえ、翌日、おびただしい血を吐いて、急逝《きゅうせい》した。饗膳に毒薬が入っていたことは、疑う余地はなかった。  お万が、老女三好とひそかに打合せて、配膳させたのであったが、油断のない野村によって、咄嗟に、姉妹の膳が、とりかえられたのであった。皮肉にも、お万の方は、継子《ままこ》を殺さんと企んだために、かえって、おのが腹を痛めた実娘に、毒を喰べさせる結果となってしまったのである。  正之は、春子変死の報をきいて、江戸家老に、厳重な詮議を命じた。  そして、老女三好以下十名を斬罪、切腹の刑に処した。しかし、張本人であるお万の方は、世子筑前守正経の生母である為に、死罪にすることができず、永久幽閉《えいきゅうゆうへい》にとどめた。 「これで、どうやら、そなたの思い通りに事がはこぶようだな」  吉良上野介は、茶亭で、黒茶碗の抹茶《まっちゃ》を、茶筅《ちゃせん》で音たて乍ら、客の席に就いている妻の三姫に、言った。 「わたくしは、このようなおそろしいことを起してまで、三郎を、上杉家の継嗣にいたしとうはありませんでした」  三姫は、良人を瞶乍ら、声をふるわせた。  上野介は、冷やかに薄ら笑った。 「女の嫉妬というものは、おそろしい。場合によっては、国をくつがえす」  独語するように、言った。  三姫は、一瞬、また何か、おそろしいことが起るような予感がして、思わず、身顫《みぶる》いした。  側妾《そばめ》三代・おもん篇  一  万治《まんじ》元年七月、米沢藩主上杉|播磨守《はりまのかみ》綱勝の夫人春子は、その生母である会津藩主|保科肥後守《ほしなひごのかみ》正之の側妾《そばめ》お万の方によって、毒殺された。  お万の方は、継《まま》子である松子を殺そうとして、あやまって、愛するわが娘の方を殺してしまったのであった。  春子は、妊娠四箇月であった。  それから、七年後——。  寛文《かんぶん》四年|閏《うるう》、五月七日、上杉綱勝もまた、非業《ひごう》の最期をとげた。  五月|朔日《ついたち》、綱勝は登営して将軍家の儀式に参列し、帰途、実妹三姫の嫁ぎさきである高家・吉良上野介義央《きらこうずけのすけよしなか》の屋敷に、立寄り、夕餉《ゆうげ》を倶《とも》にして、帰邸したが、乗物から出て玄関の式台に上ろうとしたとたん、 「うむむっ!」  と、呻《うめ》いて、膝を折った。  寵童《ちょうどう》の福王寺八弥が、あっとなって、かかえ起した。  綱勝の顔色は、草色に変じていた。 「殿っ! しっかりなされませ!」  八弥に、耳もとで叫ばれつつ、綱勝は、宙で文字を書くようなしぐさを示したが、突如、口から夥《おびただ》しい血汐を噴《ふ》いた。  血汐は、どす黒かった。  綱勝は、七日間、昏睡状態に陥《おちい》ったまま、ついに、目蓋《まぶた》を開けることなく、この世を去った。二十八歳であった。  葬儀のおわった宵、岳父《がくふ》の保科正之は、福王寺八弥を、ひそかに、密室に呼んだ。 「播磨殿は、玄関で倒れた時、宙に文字らしいものを書いた由、その方は、読みとったであろう?」 「はい——」 「なんと書いたのであったな?」 「……」 「こたえい、わしの胸の裡《うち》のみに、とどめておこう」 「つみ、とお書きなされたのでございます」 「つみ? 罪か——」 「はい」 「罪とは? その方には、解って居ろう?」 「……」 「腹蔵《ふくぞう》なく申してみい」  正之は、八弥の返辞を待った。  八弥は、畳に両手をつかえると、 「家中御一同は、殿の御逝去《ごせいきょ》につき、吉良様に、疑惑の目を向けて居りまするが、毒殺ではございませぬ」  と、言った。  綱勝は、妊娠していた夫人春子を喪《うしな》って以来、正室を迎えず、まだ側妾《そばめ》をもつくろうとしなかった。したがって、子はなかった。  このまま、すてておけば、上杉家は、改易《かいえき》となり断絶する。  ただ、吉良上野介に嫁いだ実妹三姫に、上杉家の血を継いだ三郎がいた。  上野介夫婦は、綱勝が養嗣子を迎える前に、綱勝を殺せば、三郎を上杉三十万石の太守にできる、とひそかに企んだのではあるまいか。上杉の家中は、そう疑ったのである。 「その方、たしかに、毒殺ではないと、明言いたすのだな?」  保科正之は、念を押した。 「相違ございませぬ。吉良様おもてなしの食膳は、わたくしが、のこらず、毒味《どくみ》つかまつりました」 「そうか」  正之は、安心した。 「しかし、それならば、なぜ、播磨殿は、宙に、罪、と書いたかな?」 「……」 「八弥、かくすな!」  正之は、急に、鋭い声をあびせた。 「はっ!」  八弥は、平伏した。 「ありていに申せ!」 「はっ——。実は、亡き奥方様の御懐妊は、殿のおん胤《たね》を受けられたものではなかったのでございます」 「なに!?」  正之は、大きく目を瞠《みは》った。  そのまなこを細めた時、正之は、静かな声音《こわね》で、 「その方の胤《たね》であったのか」  と、言った。  八弥は、額を畳にすりつけた。両手が、わなないていた。  かなりの沈黙を置いてから、正之は、独語するように、言った。 「すべては、過去に相成った。播磨守も春も、もうこの世には、ない」  正之は、八弥に、下ってよい、と命じた。  八弥が、退出しようとすると、待て、と呼びとめ、 「追腹《おいばら》はならぬぞ」  と、言った。  八弥は、蒼白な顔を俯向《うつむ》けて、黙っていた。  福王寺八弥は、南|置賜《おきたま》郡広幡村の竜宝寺の稚児《ちご》であった。稀代《きだい》の美童であったので、住職が、剃髪させるのは、もったいない、と思い、乞うて、城へ上げたのである。  綱勝は、一瞥《いちべつ》するや、八弥に、五十石を与え、年毎に、累進させて、千石取りの御小姓組頭にまでしたのであった。  寵愛を一身にあつめた八弥は、家中から、  ——こやつ故に、殿は、女子を愛されぬのだ。  と、憎まれていた。  綱勝が、逝去すれば、八弥は、当然追腹を切るものと、藩士らが考えるのは、むりからぬところであった。八弥も、その決意であった。  しかし、殉死は、きびしい法度《はっと》となっていた。  宇都宮城主奥平|大膳亮《だいぜんのすけ》忠昌が逝去した時、家臣杉浦右衛門が殉死した。すると、幕府では、法度違犯の咎《とが》によって、奥平家を出羽山形へ転封し、二万石の削地処分にしたのであった。  殉死は、きわめて厳しく禁じられていたのである。しかし、禁令は布《し》かれても、人情はかわらぬ。某家においては、当主がまさに逝かんとするや、家来なにがしは、追腹は法度であるが、先腹《さきばら》は制外であろう、とうそぶいて、さっさと切腹してしまった。また、ある大名の藩では、その家老は、主君が逝くや、 「屠腹《とふく》するゆえ、法度違犯に相成る。自然に、生命を断てばよろしかろう」  と、言って、墓前に露座《ろざ》して、飲食を断ち、殉死をやってのけた。  殉死は、やはり、美徳と思いなされていた時代であった。 「八弥! 殉死は許さぬぞ! 上杉家を亡ぼすな」  正之は、きびしく、戒諭《かいゆ》した。 「はい!」  八弥は、こたえざるを得なかった。  二  上杉家跡目相続は、保科正之の一言によって、吉良三郎ときめられた。幕府閣老らは、上杉家を継ぐのは、保科家三男|正統《まさずみ》を、と勧説《かんぜい》したのを、正之は、峻拒《しゅんきょ》したのである。  三男正統は、春子の同母弟、すなわち、お万の方の実子であった。正之としては、春子とその腹の子を殺したお万の方の実子を、上杉家の養嗣子にするわけにはいかなかった。上杉家のあるじになる者は、上杉家の血を享《う》けた者でなければならぬ、と主張したのである。  保科正之は、それから五年後——寛文九年春に、病いを得て隠居し、十二年春に卒去《しゅっきょ》した。  正之は、隠居する時、世子の正経《まさつね》を呼んだ。 「養生はいたしているか?」  正之は、まず、そう訊《たずね》た。  正経は、幼少から病弱であった。そのせいか、書屋にこもりがちで、ますます生気のない顔色をしていた。 「いたしてはおりますが……」  正経は、目を伏せた。近頃は、午後になると発熱して、起き上るのさえ大儀な状態だったのである。 「そのからだでは、妻をめとることができぬの」 「妻など……身共には、無用であります」 「うむ。……ま、気ままに、養生いたせ」  正之が、次に、呼んだのは、正経の同母弟|正統《まさずみ》ではなく、異母弟——お富貴の方が生んだ庫之助|正容《まさかた》であった。正容は、まだ十歳であった。  正之は、怜悧《れいり》な正容を最も愛していた。 「庫之助、わしは、近日中に隠居し、やがて、あの世へ参るぞ」  正之は、言った。 「はい」  正容は、大きく眸子をひらいて、病父をじっと、瞶《みつ》めた。 「正経が、跡を継ぐ。しかし、正経は、労咳《ろうがい》じゃ。労咳というやまいを存じて居るか?」 「存じて居ります」 「労咳は、長生きをいたさぬ。正経も、すでに、覚悟をいたして居る模様じゃ。……正経のあとは、庫之助、そちが襲うことに、決めておくぞ」 「はい」 「そちは、幼少から風邪ひとつひいたことはない。寒中の水練も、家来より先に立ってなすそうな。武技にはげんで身体を鍛《きた》えておけば、古希《こき》までも長生きしようぞ。会津松平を、盤石《ばんじゃく》にいたすもいたさぬも、どうやら、そちの肩にかかって居るようじゃ。……父の遺言を覚えておくがよい。そちの頭脳をもってすれば、諸侯と交わる座も、領土も、安泰にするのに、さほどの苦労ではないであろう。ただ、そちの頭脳をもってしても、如何ともなし難いことが、ひとつ、ある」 「なんでございますか?」 「女子の妬情《とじょう》——理《ことわり》をもってしては納得させられぬ女の嫉妬の情じゃ。……これを、読め」  正之は、一冊の漢書を、正容に渡した。  自室に下って、正容は、それを披《ひら》いた。  十歳の正容には、判読するのは、容易ではなかった。しかし、正容は、一心に読みすすんだ。  それは、支那歴代の宮廷の後宮のありさまを記したものであった。  詩に、関雎《かんしょ》の徳をたたえ、書に、嬪虞《ひんぐ》の文を序するも、鄭衛《ていえい》の淫声は、当時の世相をものがたり、のちに背徳|乱倫《らんりん》の春秋戦国諸侯が出ている。  末喜《ばっき》・妲己《だっき》・|褒※[#女へん+以]《ほうじ》・驪姫《りき》など、戦慄すべき毒婦は、つぎつぎと出現している。  詩経に、次の言葉がある。 「乱は天より降るに匪《あら》ず、婦人より生ず」  一例を、|褒※[#女へん+以]《ほうじ》にとってみよう。  周の国の十四代に、幽王《ゆうおう》という暴君がいた。  即位してからは数年間、西周の地に、地震がうちつづき、渭《い》・|※[#さんずい+ ]《けい》・洛《らく》の三河も、絶え間なく氾濫した。  趙叔帯《ちょうしゅくたい》は、奏上して、 「不祥の兆《ちょう》に克《か》つには、天子が徳を修《おさ》め、民を恤《あわれ》みたもうよりほかはありませぬ。なにとぞ、お振舞いをおつつしみ下さいますよう」  と、諌言《かんげん》した。  幽王は、怒って、趙叔帯を、官を免じ、追放してしまった。  次いで、諌議大夫の|褒※[#女へん+句]《ほうく》が、力諌《りきかん》したが、これもまた、獄中へなげ込まれてしまった。  |褒※[#女へん+句]《ほうく》の妻は、利巧な女で、幽王の怒りを解くには、ただひとつの手段しかない、と考え、領内をさがしまわって、やがて、艶麗比《えんれいたぐい》なき美少女を発見した。  |褒※《ほうく》の妻は、これを百金で買いとり、美しく化粧させて、幽王に献上した。少女は、十四歳であった。  妖々《ようよう》たる桃花は、まさに蕾《つぼみ》を破ろうとして、幽王の心を蕩《とろか》すに、充分であった。  褒(陝西《せんせい》)の地からひろい出された美少女なので、|褒※[#女へん+以]《ほうじ》と名づけられた。  それより十五年前、だれが謡《うた》い出したか、妙な童謡が、流行した。   怪しい月が昇るぞえ   沈んだ太陽は、もう昇りゃせぬ   山桑の弓、よもぎの箙《えびら》   周の国は、亡ぶぞえ  たまたま、山桑の弓、よもぎの箙をつくっている夫婦がいたので、役人が捕えようとした。夫婦は、隙をうかがって、逃走した。役人は、路傍にすてられている幼女をひろった。それが、|褒※[#女へん+以]《ほうじ》であった。  およそ帝王の寵《ちょう》をほしいままにした美女は、戦争によって掠奪されて来たか、または敵国や臣下から献上された素性|卑《いや》しい者であった。  |褒※《ほうじ》は、娼妓型の女であった。気象《きしょう》もはげしく、妬心も強かった。  周帝幽王は、|褒※《ほうじ》がねだるままに、正皇后の申后を廃し、皇太子|宜臼《ぎきゅう》もしりぞけ、|褒※《ほうじ》を皇后に、|褒※《ほうじ》の生んだ子伯服を皇太子にした。  |褒※《ほうじ》は、よほどのことがなければ、笑わない女であった。  他人の手で、冷たく育った|褒※《ほうじ》は、口をひらいて心から笑うことを知らなかった。  幽王は、|褒※《ほうじ》をどうやって笑わせたらいいか、毎日そのことばかりに腐心《ふしん》した。  ある日、幽王は、佞臣《ねいしん》の虎石父と謀《はか》って、皇城外五里の地に、一箇の烽火台《ほうかだい》を据え、敵が攻め寄せる時は、烽火を揚げて、兵を集めよ、と諸侯に命じた。  それから一月あまり後、幽王は、敵も来ないのに、突如《とつじょ》として、烽火を揚げさせた。諸侯は、われ勝ちに、兵を率いて、烽火台へ駆けつけて来た。  烽火台には、幽王と|褒※《ほうじ》が立っていた。  諸侯が、狐につままれたように呆気にとられているさまを眺めて、|褒※《ほうじ》は、はじめて、掌《て》を打って、笑い声をたてた。  諸侯は、憤然《ふんぜん》となって、去った。  正容は、その漢書を読了した。しかし、十歳の正容には、そんなおそろしい帝王や毒婦がこの世に存在したことが、どうしても納得できなかった。  三  恰度《ちょうど》、その頃、福王寺八弥は、亡主綱勝の遺骨《いこつ》を奉じて、高野山に登り、剃髪《ていはつ》して、幻智と改め、三回忌まで参籠《さんろう》して、山を下って来ていた。  斑鳩尼寺《いかるがにじ》のほとりを歩いている時であった。  路傍で、一人の浪人者が、四五歳の少女を、むしろの上におさえつけて、短剣をかざしているのを視て、おどろいて、 「何をされる!」  と、その手を押えた。 「別に成敗いたすのではござらぬ。すてておいて下され」  浪人者は、顔面を歪《ゆが》めながら、言った。 「しかし、その短刀で、何とされる?」 「あたまを剃り落して、中宮寺へおたのみ申す」 「いやがるものを、比丘尼《びくに》にされては、弥陀も、よろこばれまいぞ」 「むりやりに丸坊主にせねば、殊勝に尼になどなるむすめではござらぬ。祖母を殺したのでござる」 「なんと申された?」 「祖母を、縁側から、突き落したのでござる。祖母は、庭石で頭を打ち、あえなくなり申した」  浪人者は、泪《なみだ》を頬につたわせた。  幻智は、幼女を抱いて、ともかく、浪人者の家へ行くことにした。抱き上げてみて、幻智は、幼女の貌《かお》が、稀《まれ》にみるほど整《ととの》っていることに気がついた。  その家は、浪人者乍ら、かなり裕福であることを示した。浪人者は、妻を喪《うしな》い、孤独なくらしをしている由であったが、屋内は、整然として、その人柄を、幻智に頷かせた。  幼女は、おもん、といった。  おもんが、尋常一様の気象《きしょう》でない子であることに、最初に気がついたのは、その子守であった。おもんを、庭で遊ばせておいて、ちょっと用たしをして来た子守は、戻ってみて、悲鳴をあげた。  三歳のおもんが、小枝をつかんで、四尺もあろう青大将《くちなわ》を、からかっていたのである。  ちょこんとしゃがんで、さもおもしろそうに、小枝の先で、青大将の頭をつつき、青大将が、怒って鎌首を擡《もた》げて、長い舌を出したりひっこめたりするさまを、ながめていた。恐怖というものは、すこしもないようであった。  子守が、あわてて、抱きあげて逃げようとすると、おもんは、烈しく身もだえして、いやがった。 「噛《か》みつかれたら、死んでしまいますよ、お嬢様——」  と、おどかすと、おもんは、 「この蛇を、ころしておくれ」と叫んだ。 「そんなこと、おそろしゅうて……」 「いやじゃ! わたしを噛もうとして憎い奴じゃ! 殺しておくれ!」  おもんは、めちゃめちゃに、子守の胸を叩いた。  子守が、かかえて、家の中に入ると、おもんは、その手を振りはらって、奥へかけ込んだ。また駆け戻って来たが、その手には、父の脇差をつかんでいた。子守が仰天して、止めようとすると、抜きはらって、睨みつけ、 「おまえのような臆病者は、きらいじゃ」  と、叫んだことだった。  おもんの異常なまでの勝気は、人目を惹《ひ》かずにおかぬ可愛い目鼻立ちで、かくされていたので、他人は、すこしも気がつかなかった。  父と祖母と子守だけが、知っていた。  その祖母が、おもんの悪戯《いたずら》を、きびしく叱ったところ、一刻ばかり経って、縁側を歩いている祖母を、おもんは、背後から突きとばしたのである。祖母は、庭さきへころげ落ち、置石で頭を打ち、三日あまり意識不明で、逝ってしまったのであった。  父親としては、まさか、五歳の幼女を殺すわけにもいかず、中宮寺へともなって、尼僧にしようとしたのである。おもんは、それをいやがって、逃げ出そうとしたので、やむなく、路傍でとりおさえて、頭髪を剃ってしまおうとしたのであった。  話をききおわって、幻智は、 「この娘御を、愚僧にお預け下さるわけには参りませぬか?」  と、申し出た。  浪人者は、沈鬱《ちんうつ》な面持で、 「御坊が、いかに、御仏の力をおかりなされても、この娘を尋常に育てることは、できますまい」  と、言った。 「ともかく、お預けねがえまいか」  幻智は、かさねてたのんだ。  おもんは、美貌《びぼう》の僧を、じっと瞶《みつ》めていたが、 「もんは、坊様のところへ行きます」  と、言った。  四  保科家では、筑前守|正経《まさつね》が、会津藩主第二世となり、その世子として、異母弟の正容《まさかた》が正式に決定した。  正経が、当主となったので、その生母お万の方も、永久幽閉を解かれて、三田の上屋敷へ帰ることが許された。  正経は、しかし、わが生母とはいえ、お万の方の陰険《いんけん》な性質をきらっていた。  父正之が逝くや、国許に置いてあった正容を、江戸へ呼び寄せたが、その時、正経は、ひそかに、 「正容、この上屋敷の奥では、一切食事をしてはならぬぞ」  と、注意をしておいた。  お万の方が、正経が妻を迎えずに、異母弟正容を世子にしたことを、憎んでいることは、火を見るより明らかであった。お万の方が、同母弟の新助|正統《まさずみ》を世子にすることを希望するのは、母としての情であったろう。  正経は、亡父の遺言でもあったが、正統が凡夫《ぼんぷ》であることを知っていたのである。  正経は、やがて、労咳《ろうがい》によって、臥床《がしょう》し、再び起き上らなかった。  天和《てんな》元年十月某夜、正経は、人知れぬうちに、息をひきとっていた。  正容は、会津藩主三世となった。正容が、主座に就いて、まずはじめになしたことは、継母お万の方を、大崎の別邸へ送ることであった。  お万の方は、それから三年後に、その別邸で歿した。  継母であるから、正容は、その遺骸を拝《おが》むために、別邸へおもむいた。  合掌して、正容が、立とうとしたとたんであった。  死者の痩せさらばえた蒼い手が、スルスルとのびて、正容の袴の裾をムズと掴《つか》んだ。  正容も、流石に、色をうしなった。  用人の杉本源右衛門が、仰天し乍ら、脇差を抜いて、袴の裾を斬りはなした。  女のおそろしさを、見せつけられた正容が、妻をもらうのに、慎重であったのは、言うまでもない。充分の調査のすえ、正容が、えらんだのは、阿部豊後守の女《むすめ》竹姫であった。  正容二十三歳。竹姫十七歳であった。竹姫は、美貌で、気質優しく、一点非の打ちどころのない女性であった。不幸にして、三年後に、肺炎になって、亡くなった。  正容は、竹姫を喪うと、もはや正室は持たぬ、と声明した。  しかし、嗣子《しし》がないと、家は断絶する。正室はなくとも、嗣子を生む側妾を置かねばならなかった。  城代はじめ、老臣らは、会津藩内はもとより、親戚諸侯の家中にも依頼して、見目《みめ》よく、聡明で、且善良な性質の娘を、さがし求めた。  そして、二人の娘が、えらび出された。  一人は、郡山本多家の浪人横山久右衛門のむすめ「やう」であった。  もう一人は、米沢城下はずれの知念寺預りの娘おもんであった。福王寺八弥こと幻智がもし、生存中であったならば、おもんは、会津藩主にさし出されなかったに相違ない。  おもんは、育つにつれて、いよいよ美しさを増し、しかも、その異常な烈しい気象を完全にかくして、しとやかそのものの娘になっていて、誰の目にも、これはただの縁組をするむすめではない、と映っていたのである。たまたま、会津藩が、側妾をさがしているという噂があり、住職は、おもんを推挙《ヽヽ》したのであった。  住職は、おもんを、福王寺八弥の実子、と信じていたのである。  五  元禄六年春、おやう、おもんの二人は、勤番の士数名にまもられて、出府《しゅっぷ》し、三田の上屋敷に上った。  二人は、江戸家老から、「殿には、御正室を置かれるご意志は毛頭持たれぬ故、左様おん身がたも心得ておかれるように」と一本釘を打たれた。  正室となる希望がない以上は、一日もはやく嗣子を生んで、その座を安泰にしなければならなかった。  正容は、おやうとおもんの閨《ねや》を平均におとずれた。  先に妊娠したのは、おやうであった。しかし、生んだのは、女子であった。おもんは、おやうが、妊娠したときくや、失神して、数日間、牀《とこ》に臥《ふ》したくらいであったが、生まれたのが女子ときかされた日は、屋敷に入ってはじめてといってよいくらい、華《はな》やかな笑い声をたてて、侍女たちと香合《こうあわ》せに夜を更かした。  一年おくれ、おもんは、妊娠した。そして、世子・正邦を生んだ。  もはや、わが地位はゆるがない、と心おごったおもんが、その烈しい気象を、そろそろむき出して来たのは、やはり女のあさはかさであったろう。  ——もんは、妬奸《とかん》の婦ではあるまいか?  そう疑いはじめた正容は、急に、おもんの顔を見るのがうとましくなり、しだいに、閨房から足を遠のかせた。  正容が、おやうの部屋をより多くおとずれている、という報せは、おもんを逆上させた。  お世嗣ぎをもうけた自分を、何故に、殿がうとましくするのか、おもんには、合点がいかなかった。おもんとすれば、正容に対して、せい一杯の媚態《びたい》を示したつもりであった。一夜も多く、自分の部屋に来て欲しい、とせがんだのは、あまえたことなのだ。うとまれる欠陥があろうとは、思えなかった。容子《ようし》も、肌も、そして褥《しとね》の中の睦《むつ》びかたも、何ひとつ、おやうに劣っている筈がなかった。  もし、おもんに、しかるべき狡知《こうち》の老女が附いていて、その烈しい気象を巧妙におしかくす智慧《ちえ》を、いろいろとさずけたならば、その地位は、おそらく、安泰であったろう。  おもんは、一人で煩悶《はんもん》し、懊悩《おうのう》した挙句《あげく》、久しぶりに、褥に迎えた正容に向って、男が最も忌《い》む手段をとった。  技巧のない、きわめて冷たいすねかたをしてみせて、正容が、興ざめて、褥を出ようとするや、いきなり、 「わたくしは、もはや、生きるのぞみもありませぬ!」  と、叫んで、懐剣《かいけん》を抜きはなち、咽喉《のど》へ擬《ぎ》した。  正容は、瞬間、  ——やはり、そうであったか。  と、合点した。  凄じい形相になったおもんを見下して、  ——末喜《ばっき》に対する桀《けつ》王、妲己《だっき》に対する紂《ちゅう》王、|褒※[#女へん+以]《ほうじ》に対する幽王——かれらの轍《てつ》を、わしは踏《ふ》まぬぞ!  正容は、胸中で叫ぶと、 「女は、男子の生を断つ斧を持っていても、おのが命をすてる刃は持っては居るまい。みごと、自害したら、供養はおこたらぬぞ」  と、冷然と言いすてて去った。  三日後、おもんに、本国会津へ押送《おうそう》の下知《げじ》が下された。  二の町御|賄所《まかないじょ》に、永久監禁の旨《むね》、伝えられるや、おもんは、使者の用人杉本源五右衛門と御内証用人牧原只右衛門に向って、脇息《きょうそく》を掴んで、投げつけた。  おもんは、この両名が、殿をそそのかして、自分を押しこめるのだ、と信じた。そして、この憎悪は、死ぬまで持ちつづけられることになった。  六  おもんの幽閉は、実に十七年の長い歳月にわたった。  正徳三年五月、ようやく、おもんは、三十四歳で、その幽閉を解かれた。  世子正邦が、疱瘡《ほうそう》を患って、夭折《ようせつ》したからであった。  おもんは、その悲報に接した時、写経をしていたが、いきなり、硯《すずり》を掴んで、庭さきへ発止と投げつけた。  そこには、日頃おもんが可愛がっていた白犬が、生んだばかりの仔犬に乳をのませて、日向ぼっこをしていた。  犬は、悲鳴をあげると、仔犬をすてて、逃げた。  まだろくに目の見えぬ仔犬が、よたよたと母をもとめて啼《な》くさまへ、しばらく、虚脱《きょだつ》の眼眸《まなざし》を投じていたおもんは、急に、眦《まなじり》を裂くように眸子《ひとみ》をかっとひらいて、 「おやうめ! のろい殺してやる!」  と、口走った。  正邦が逝けば、あとは、おやうの生んだ正甫《まさもと》が、嫡嗣《ちゃくし》となる。おもんにとって、わが子の死よりも、そのことが、堪え難かったのである。  それから、一月ばかり過ぎて、江戸上屋敷に在る七歳の正甫《まさもと》が、原因不明の高熱を発した。数日経っても一向に熱が引く様子もないのを診て、医師は、首をひねった。  江戸家老|簗瀬《やなせ》三左衛門は、おやう附きの老女から、 「若様のお熱は、おもんの方のひそかな呪法によるものではありますまいか」  と、ささやかれた。呪詛《じゅそ》の法は、効験があるものと、信じられていた時代であった。  三左衛門自身、——もしや? と憂慮していた矢先であったので、これはせめて、監禁を解くに如《し》かず、考えた。  三左衛門は、ただちに、正容の面前に罷り出て、幽閉御免の処置をおとり頂きたい、と願い出た。  正容は、呪詛の法などは信じてはいなかったが、もしおもんが、そのいまわしい手段をとっていて、これが表沙汰になれば、世間の顰蹙《ひんしゅく》を買う、と思い、 「禁は解いてもよい。解いてもよいが、もとの座にもどすことはできぬぞ」  と言った。  しかし、それでは、幽閉御免の処置にはならぬのである。  三左衛門は、こたえた。 「ただひとつ、手段《てだて》がございます」 「どのような思案じゃ?」 「一向宗の僧徒か、もしくは、士分の者の妻に、お下しなさることであります」  この思案をきくと、正容は、眉宇《びう》をひそめて、容易に返辞をしなかった。  もとより、大名が、その側妾を、家臣に下げ渡す例がなかったわけではない。しかし、おもんが、はたしてそれを承知するかどうか。あれほどの気象の烈しい女ゆえ、もしかすれば自害する場合も、考えられる。  しかし、もう一度奥へ入れることを避けるとなれば、それ以外に、方法はないように思われた。 「そちにまかせよう」  正容は、許さないわけにはいかなかった。  その使者として、二の町の御賄所へ出張したのは、またしても、おもんが、十七年間、怨みつづけた用人杉本源五右衛門と御内証用人牧原只右衛門であった。  おもんが、およそ一刻近くも待たせて、現れるや、二人の使者は、ぞっとなった。  その貌《かお》が、曾て誇っていた美しさは、かえって、ことごとく甚しい醜怪《しゅうかい》さに変っていた。細おもて、面《おも》高である気品は、険《けわ》しい鬼気に似たものに変っていたし、切長の眸子や、高い鼻梁《びりょう》は、際立っているだけに、かえって、邪悪なものと化す効果があったように見えた。  源五右衛門は、上座になおると、 「その方儀、若君殊に御不憫に思召され、幽閉御免仰せ出され、この後四人扶持下され、追而《おって》相応の者へ縁付け遣《つかわ》さるべきもの也」  と、読み上げた。  おもんが、逆上することを、覚悟してやって来た使者たちであったが、なぜか、おもんは、頭を下げたまま、微動もしなかった。  おもんが、いつまでも沈黙しているので、只右衛門が 「お受けの言葉、いかに?」  と、促した。  すると、おもんは、ゆっくりと、顔を擡げて、あらん限りの憎悪をこめて、両名を睨みかえしておいて、すっくと立ち上った。  すると、その裾から、スルスルと、いっぴきの白蛇が、匍《は》い出て来た。 「おのれ!」  源五右衛門は、かっとなると、差料に手をかけた。 「君の御憐憫《ごれんびん》を蔑《なみ》し奉り、仰せ渡されの御受けもいたさず、その無礼の振舞いは、何事か! あくまで、君を恨み奉らん所存とみえた。その場を去らせず、致さん様があるぞ!」  凄じい語気で叱咤すると、おもんは、耳もないような態度《たいど》で、そっと白蛇をとりあげると、おのが頸《くび》に巻きつけ、 「太郎よ、今日のような屈辱の日もあろうか、と思い、そなたを大切に飼いならして参った。恩を感じるならば、はよう、締めてくれるがよい」  と、口走って、目蓋を閉じた。  両名は、おもんが、乱心したのだ、と思った。  いかに、妬奸《とかん》の婦とはいえ、所詮おもんも、弱い女であった。  藩の重臣の強引な実行力に抗すべくもなかった。おもんは、翌年早々に、御使番神尾八兵衛に嫁がせられた。  八兵衛は、温和な人物であった。妬奸の下賜妻に、堪えられる筈もなかった。第一、おもんは、八兵衛に、肌身を与えることを、頑《かたく》なに拒《こば》んだのであった。  八兵衛の方も、初夜の褥に入ろうとして、その中に、とぐろを巻いた白蛇を発見して、慄然《りつぜん》となり、二度と寝室に近づく気にはなれなかった。  それでもなお、三年間、おもんが神尾家に住んだのは、八兵衛の異常な忍耐によるものであった。  致仕《ちし》を決意した八兵衛の嘆願によって、おもんは、同じ屋敷に別棟を建てて、押しこめられた。それは、形式であって、八兵衛自身は、その屋敷を立退いて、別の家に引移ってしまった。  おもんは、再び幽閉の日々をすごし、寛延三年十月初旬に逝った。せむしで白痴に近い下僕一人に仕えられ乍ら——。  おもんが逝ったのち、屋敷は取払われたが、庭の末の竹藪の中に、石の小祠が勧請《かんじょう》されてあるのが、発見された。  白蛇をまつる小祠であり、扉を開いてみると、かたく封じた小函《こばこ》が、神体らしく据えてあった。蓋を破ってみると、美しい振袖の着物の片袖に、針を数本刺したのが、納めてあった。  家中に於いて、陰陽学を修めた士があって、これを見せられると、人を呪詛する時に封じたものらしい、と判断した。  おもんの呪詛によるものかどうか——。  杉本源五右衛門の家も、牧原只右衛門の家も、次の代になって、潰れた。両名の倅は、ともに、若年で疫病で斃《たお》れてしまったのである。  側妾《そばめ》三代・お市篇  一  宝永《ほうえい》七年正月二日の夜のことであった。  備前《びぜん》岡山藩の定府《じょうふ》・奥詰《おくづめ》の塩見平右衛門は、年賀使者として、老中大久保加賀守邸へおもむき、陽が落ちてから帰宅したが、駕籠《かご》の中に、二歳ばかりの幼女を同乗させていた。  妻女は、見すぼらしい装《なり》をした幼女をかかえて、駕籠から降り立った良人《おっと》におどろいて、 「いかがなさいました?」  と、訊ねた。 「路上で、ひろった。お前、育ててくれ。器量はわるくないぞ」  平右衛門は、そう言って、妻女へ幼女を、ヒョイと手渡しておいて、さっさと奥へ入ってしまった。  平右衛門は、豪放磊落《ごうほうらいらく》な人柄で、噂にのぼる奇行が多かった。二十年もつれ添うた妻女も、良人の振舞いには充分心得があったが、いきなり見知らぬ幼女を、養え、とおしつけられたのには、あきれた。  居間へ追って来て、 「路上でひろった、と仰せられますが、素性も何も判らぬのでございますか?」  と、訊ねた。 「素性は、判って居る」 「はあ? 何人《なんびと》の——?」 「良人を殺して、町奉行所へ曳《ひ》かれて行く女が、かかえて居った」  平右衛門は、こともなげにこたえた。  妻女は、唖然《あぜん》として、あいた口がふさがらなかった。 「曳かれて行く女が、大層《たいそう》な美女でな、それが罪を犯した悔いにやつれた風情《ふぜい》が、なんともいえぬあわれさで、わしは、つい、声をかけてしもうた。……で、つまり、その子を引受けるしまつに相成ったのだ。すまぬが、たのむぞ」 「はあ……?」 「良人を殺した仔細《しさい》をきいたが、そやつ、途方もない極道者《ごくどうもの》でな。女の実母とまで密通いたして居った破廉恥漢《はれんちかん》であったらしい。元旦早々から、実母と同衾《どうきん》されては、逆上して殺したくもなろうではないか。ふびんな女子《おなご》よ。わしが、この子を引きとって立派に育ててくれる、と約束してやれば、せめて、心がなぐさめられるであろうと思ったのだ。……わしが軽率《けいそつ》であったかな?」 「いえ——」  妻女もよく出来た女性であった。  良人が、幼児を引き受けた気持が、よくわかったので、妻女としても、黙って、押しつけられるままに、育てることにした。  夫婦には、子供がなかった。  幼女は、お市といった。利発で、愛嬌があり、すぐに、夫婦に馴《な》れた。  享保《きょうほう》八年四月——十五歳で、お市は、乞われて、会津藩邸へ上り、側妾おやうの方の側《そば》女中になった。  もう一人の側妾おもんの方は、妬奸《とかん》の婦として、すでにしりぞけられて居り、会津藩邸の奥向きは、平穏になっていた。  当主保科|正容《まさかた》は、すでに、おもんの凄じい嫉妬ぶりに、懲《こ》りている筈であった。  しかし、前轍《ぜんてつ》を踏むまい、として、またうかうかと踏んでしまうのが、凡夫のあさましさであった。  正容は、お市を一瞥《いちべつ》したとたんに、われを忘れるほど、惹きつけられた。可憐という形容は、この娘のためにつくられたか、と思われるくらいであった。  こんなに可憐な面立《おもだ》ちの娘が、妬奸の婦になるなどとは、とうてい考えられなかった。  しかし、正容は、亡父|正之《まさゆき》の訓戒を忘れてはいなかった。正之は、教えたのである。 「父の遺言を覚えておくがよい。そちの頭脳をもってすれば、諸侯と交わる座も、領土も、安泰にするのに、さほどの苦労ではないであろう。ただ、そちの頭脳と力をもってしても、如何ともなし難いことが、ひとつ、ある。……女子の妬情——理《ことわり》をもってしては納得させられぬ女の嫉妬の情じゃ」  そして、正容が、与えられたのは、支那時代の宮廷の後宮のありさまを記した漢書であった。  十歳の正容には、判読するのは容易ではなかったが、いちど脳裡《のうり》にきざみ込んだ末喜《ばっき》・妲己《だっき》・|褒※[#女へん+以]《ほうじ》・驪姫《りき》などの毒婦の戦慄すべき行状は、いまも忘れてはいなかった。  のみならず——。  正容は、おもんによって、女の嫉妬の凄じさも、経験した。  正容は、側妾をつくるのに、おそろしく要心ぶかい男になっていたのである。  お市の可憐な美貌に、一瞬、われを忘れたものの、正容は、すぐさま、閨房《けいぼう》へ召そうとはしなかった。  次の日——。  正容は、司《つかさ》清三郎を、ひそかに、居室に呼んだ。  司清三郎は、松平伊豆守|信祝《のぶとも》の推輓《すいばん》で、寄合旗本の三男から、小姓組番頭になった二十六歳の切れ者であった。  五歳の時、四書五経をすらすらと読み下したことが、語り草になっている。湯島聖堂はじまって以来の俊才と称されている。  旗本の子弟は、十二歳になると、湯島聖堂で、四書五経の素読の試験を受けなければならぬ法規がつくられていた。この試験に及第しなければ、たとえ長男であっても、家督《かとく》相続は許されなかった。したがって、頭脳の劣等な少年は、嫡男《ちゃくなん》であっても、廃される例がすくなくなかった。反対に、頭の良い少年は、十二歳未満でも、受験できたのである。また、素読吟味にさえ合格していれば、十五歳にならないでも、十五歳になったといつわって、即ち公年をもって、元服することが出来たのである。父親が死んだ場合を考慮しての便宜的措置であった。  司清三郎は、わずか九歳で、素読の試験に及第し、試験官をして舌を巻かせたのであった。  二 「市という娘が、おやうの側女中に上って参った」  正容は、司清三郎に、言った。  清三郎は、無表情で、 「お気に召しましたか?」  と、問うた。 「気に入った」 「お慰みを希望なされますか?」 「うむ——」 「早速に、素性を調べまする」  清三郎は、それから三日後に伺候すると、 「市なる娘、お伽《とぎ》にお加え遊ばすこと、おひかえ下さいますよう——」  と、言上した。 「素性が、いかぬか?」 「良人が、実母と不倫《ふりん》を働いているのを知り、これを殺害した女の子にございます」  清三郎は、くわしく調べあげていた。  ききおわってから、正容は、 「それでも、わしが、市を欲しい、と申したならば、いかがいたす?」  と、訊ねた。  清三郎は、ちょっと思案していたが、 「御前には、生娘《きむすめ》をご希望遊ばしますか?」  と、訊ねた。 「……」  正容は、その意味が、よく判らず、怪訝《けげん》な表情になった。 「市なる娘、身共に数日お下げ渡し下さいますれば、妬婦《とふ》たらざるように処置を施して、おん身許にお返しつかまつります」 「……」 「但し、その際、すでに、市は、生娘ではございませぬ。その儀、何卒お許し下さいますよう——」 「よし。問うまい」 「なお、市をご寵愛《ちょうあい》なさいますのは、二年を限りとおとりきめ下さいませぬか?」 「二年か——」  正容は、いささか短い、と思った。  しかし、司清三郎という人物は、正容に反対をとなえさせぬふしぎな威圧力をそなえていた。 「そちが、そう申すなら…」  正容は、しぶしぶ承知した。 「二年過ぎたならば、家来にお下げ渡しの程を願い上げまする」 「そうか。そちの意嚮《いこう》の程、相判った」  正容は、微笑した。 「清三郎、そちは、にくい奴だの」 「恐れ入りまする」  清三郎は、頭を下げた。  翌日、司清三郎は、物頭笹原伊三郎の家を訪れた。 「嫡男与五衛門殿に、程よき娘御を娶合《めあわ》せたく存ずるが、いかがでござろうか」  なにげない口調で、きり出した。  将来は、江戸家老にもなろうという人物が、申し出たので、笹原伊三郎は、よろこんで、お受けつかまつる、とこたえた。 「市と申す、眉目《みめ》うるわしい、今年十五歳になる娘で、ただいま、拙宅《せったく》にとどめ置き申す。明晩にも、与五衛門殿は、罷《まか》り越されたく存ずる」 「忝《かたじけな》いご配慮、厚くおん礼申し上げます」 「但し——」  清三郎は、威儀をただすと、 「婚礼の儀は、二年さきといたしたい」 「二年さきと申されると?」 「理由は聞かれるな」  清三郎は、刃物で切りすてるように、伊三郎を押えた。  笹原伊三郎は、清三郎が去ると、嫡男与五衛門を呼び、 「司清三郎|氏《うじ》が、お前に、程よき嫁を世話する、と申されて居る」  と、告げた。与五衛門は、二十八歳になっていた。妻を持つのは、おそすぎるくらいである。与五衛門は、労咳《ろうがい》(肺結核)で十年近くも、寝ていたのである。 「まだ、妻を迎えるほど、からだに自信がありませぬ」 「いや、恰度《ちょうど》よいことに、婚礼の儀は二年さきに、と司氏は申されて居る。お受けせい」 「父上が、そうせよ、と申されるならば、お受けいたします」  父子は、その嫁取りが、後年どのような騒動をひき起こすか、神ならぬ身の、不吉な予感さえもおぼえなかった。  三  司清三郎は、すでに、藩邸奥向きから、お市を下げてもらって、自分の長屋へつれて来ていた。  その日——。  女中に命じて、湯をつかわせ、腰巻、肌襦袢《はだじゅばん》、下着、振袖まで、すべて純白のものを身にまとわせて、座敷に据えた  清三郎は、お市に対座すると、いきなり、 「そなたは、今宵、生涯の良人《おっと》となる男と契《ちぎ》る」  と、宣言した。  お市は、びっくりして、清三郎を、まじまじと見かえした。 「すでに、そなたの養父母の承諾も得た。そなたの良人として、申し分のない男だ。……受けるがよい」  反対してみたところで、自分の知らぬ間に膳立てができてしまっているからには、許される筈もないことだった。お市は、頷くよりほかはなかった。 「但し、今宵《こよい》の契りは、その男を生涯の良人と、とりきめた、という、いわば、仮約束である。晴れて夫婦として、世間に披露し、ともにくらすのは、二年さきに相成る。よいな?」 「はい——」 「その二年のあいだは、そなたは、奥に於てご奉公する。ご奉公している時は、良人のことなど忘れて居るがよい。ご奉公が大切と心得ねばならぬ」  お市は、清三郎が、なぜ、わかりきったことを、くどくどきかせるのか、それが不審であった。  陽が落ちてから、笹原与五衛門が来訪した。  与五衛門は、眉目整った、いかにも譜代名家の藩士らしい青年であったので、お市も、不安が消えた。  与五衛門の方は、勿論、お市の可憐な容姿を一瞥《いちべつ》して、清三郎のとりはからいに感謝した。  当時、武家の縁組は、藩庁の許可を必要とした。双方から出願するのが定例になって居り、許可がなければ、結婚はできなかった。  許可が下りた場合、直ちに婚儀を挙行しなくても、たとえそれが何年後になるにもせよ、同棲はしていなくても、夫婦であった。  但し、婚儀を挙行しない以前は、当人同士は決して往来しなかった。逢引《あいび》きということは、絶対になかったのである。  司清三郎は、与五衛門とお市の前へ、それぞれの願い書を置いた。 [#ここから2字下げ] 奉願口上之覚 備前藩定府奥詰塩見平右衛門の娘いち、私縁組|仕度《つかまつりたく》奉願候、此段|不苦《くるしからず》思召候わば御序之刻、 御年寄中迄宜敷仰上可被下、奉願上候 笹原与五衛門 [#ここで字下げ終わり]  お市の方の願い書は、養父塩見平右衛門の署名になっていた。  ただ、お市の方の願い書には、別に一行、左のような誓約が添加されていた。   猶、殿中御奉公の間には、御奉公専一に相勤め申上候 「よいな? これを、それがしが代って、明日、さし出しておく」  清三郎は、告げておいて、さっさと立って行った。  しばらくして女中が入って来、二人を、奥の部屋へ案内した。  そこには、褥《しとね》が敷かれていた。  祝言の寝所には、ふつう、鶺鴒《せきれい》の島台《しまだい》、若松の肴台《さかなだい》、鴛鴦《えんおう》の屏風《びょうぶ》などがしつらえてあり、そこで、床盃《とこさかずき》が交されるのであるが、なんの用意もされていなかった。  婚礼の儀式をとり行って、三三九度の盃を交したわけではないから、床盃がないのも、やむを得なかった。  与五衛門は、会津のしきたりにしたがって、衣服を脱ぎすてて、褌《したおび》ひとつになると、掛具をはねて、褥の上に胡座《あぐら》をかいた。  お市は、しかし、会津のしきたりを知らなかった。 「ここへ——」  与五衛門は、お市をまねいた。  怯《お》ず怯《お》ずと近づいて来たお市は、与五衛門から、胸の懐剣を把られて、びくっとなった。  与五衛門は、懐剣の鞘《さや》を払うと、 「契りの作法じゃ」  と、言って、まず、白無垢《しろむく》の帯を切断して、前をはだけさせた。ついでに、下着のしごきを切りはなした。さらに、肌襦袢を締めた紐《ひも》を切って、白い稚《おさな》い裸身を剥《は》ぐと、褥の上へ仰臥《ぎょうが》させた。  与五衛門は、懐剣を掴んだまま、しばし、その裸身を、凝視《ぎょうし》した。  会津のしきたりは、新婦に対して、かなり残忍であった。  新郎は、おのれと新婦の下腹の、恥毛のすこし上部を、十文字に薄切って血を噴かせ、腹と腹をピタリと合せて、ふたつの血汐をひとつに混合させなければならなかった。  甚だ原始的なしきたりであったが、婚儀のひとつとして、厳然として守られていたのである。会津にあっては、士分の者はもとより、町家にあっても、必ずこれを行っていた。  夫婦《めおと》は、一心同体であると誓い合う意味のものとして、重く視られていたのである。  与五衛門は、しかし、お市のまだ熟しきらぬ、透けるように薄い肌を見まもって、それに、刃を加えることが、あまりに、むごたらしく思われ、  ——二年後でよいのではないか。  と、自分に言いきかせた。  さいわいに、お市は、このしきたりを知らぬようであった。  与五衛門は、懐剣を鞘に納めると、しずかに、傷はもとより、汚染《しみ》ひとつないお市の肌の上へ、おのが裸膚《らふ》を密着させた。  新郎が新婦をさまざまに愛撫する、などということは、当時の武家には、絶対にあり得なかった。  文字通り、契る、というきわめて簡素な行為しかなかった。  お市は、疼痛《とうつう》を、歯を食いしばって、堪《た》えただけであった。  翌日、お市は、奥向きへ還されていた。  四  お市が、老女の一人から、 「今宵、殿様より、そなたに伽《とぎ》を、とお申しつけがありました」  と、告げられたのは、一月ばかり経ってからであった。  お市は、愕然《がくぜん》となって、 「わたくしは、笹原与五衛門の妻でございます」  と、こたえた。 「なにをたわけを申します。人の妻たる身が、いつわって、御殿へ奉公に上ったことが、判れば、死罪を蒙りますぞ」  老女は、きめつけた。 「仔細は、司清三郎様がご承知でございます。司様より、おきき下さいませ」  お市は、良人をさだめたのは、司清三郎のはからいによることを話して、清三郎に会わせて欲しい、と悃願《こんがん》した。  老女は、しばらく間を置いてから、 「死罪を覚悟の上で、お殿様のお申しつけをご辞退するなら、してもよろしかろ」  と、意地悪に脅した。  半刻後、司清三郎が、奥へ入って来て、書院へお市を呼んだ。 「おん殿《との》から、お伽のお申しつけがあった由、お受けせねばならぬ」  お市は、冷然として命ずる清三郎を、息をのんで見かえした。  清三郎は、急に、やさしい微笑をつくると、 「そなたの願い書には、二年の間は、御奉公専一に、と記してある。この奥に在る限り、そなたは、女中だ。あるじのお申しつけにさからうことはできぬ」 「で、でも……、わたくしは——」 「笹原与五衛門の妻だ、と申したいのであろう。まさしく、その通りだ。しかし、そなたと与五衛門は、婚儀を挙げては居らぬ。家中に、そなたらが夫婦であることを、知る者はない。……老女が申したであろう。人の妻たる身をいつわって、この奥に奉公していることが発覚いたせば、そなたも死罪ならば、与五衛門も切腹。仲人となった身共も、自裁してお詫《わ》びいたさねばならぬ。そこのところを、よくわきまえねばなるまい」 「……」  お市は、俯向《うつむ》いた。泪《なみだ》が頬をつたった。 「お市、そなたは、自分がおん殿のお伽をつとめたならば、良人の与五衛門が、どのように苦しむか、と案じて居るのではないか?」 「はい」  お市は、頷いた。  すると、突然、清三郎が、鋭《するど》い声音《こわね》で、 「笹原与五衛門は、会津松平家の家臣だ。主君のためには、家をかえりみず、肉親をすて、おのが生命をなげうつのが、家臣の吟味と申すもの。仮の妻が、主君のお慰みを受けたことを、お恨み申上げるような家臣ならば、主君に代って、この司清三郎が、成敗《せいばい》いたす!」  と、言いはなった。  十五歳のお市には、返すべき言葉もなかった。 「よいか。そなたが、笹原与五衛門の妻であることは、身共と、願い書を受けとった大目付だけが承知いたして居る。……おん殿には、身共から、折を見はからって、申上げておく。二年間は、おん殿にお仕えしてもらいたい。二年経ったら、身共から乞うて、お下げ渡しねがい、晴れて、与五衛門と婚儀を挙げさせる。よいな?」 「はい」  お市は、頷かざるを得なかった。  清三郎は、奥から出ると、まっすぐに、与五衛門をその長屋にたずねた。 「お主を当惑させることが、出来《しゅったい》いたした」  清三郎は、苦渋の表情で、告げた。 「市が、殿より、伽を命じられた」 「えっ! そ、それは、……ど、どうなるのでござろうか?」 「おちつかれい、市が、もし、これを辞退する理由として、お主と夫婦であることを口にいたせば、市は死罪、お主も身共も切腹して、お詫びしなければならぬ」  清三郎は、緩急《かんきゅう》自在な弁舌で、与五衛門を、納得させてしまった。  清三郎が、笹原家を辞去した時刻、お市は、奥御殿の寝所で、藩主正容の腕の中にいた。  その年の秋がふかまって、正容は、会津へ帰還したが、お市もともなわれた。その時、すでに、お市は、懐妊していた。翌年八月、お市は、容貞《かたさだ》を産んだ。会津藩四代目となる和子《わこ》であった。  享保十年春——。  正容は、お市と容貞をともなって、江戸へ戻って来た。  上屋敷で待っていた司清三郎は、数日も置かずに、人目のない時を見はからって、正容に、 「お約束の二年が過ぎました」  と、きり出した。 「なんの約束をしたかな?」 「お市殿を、二年経ったならば、お下げ渡し下さる、というお約束でございます」 「おう、そうであったな。たしかに、約束したが……、しかし、市は、新之助(容貞)を産んだぞ」 「それが、どうかいたしましたか?」 「むごいことではないか。新之助から、市をひきはなすのは——」 「お約束でございます」  清三郎は、冷然として、言った。 「子を産まぬ場合と、産んだ場合とでは、事情がかわって参るぞ」 「べつに、かわりませぬ。お約束はお約束——お市殿をお下げわたし下さいますよう」 「わしが、いやだと申したら、どうする?」 「お市殿は、物頭笹原伊三郎の嫡子与五衛門の妻でございます」 「……」  正容は、沈黙せざるを得なかった。  お市を側妾にするにあたって、これが妬奸の婦となるかならぬか、と疑懼《ぎく》して、清三郎に手を打たせたのは、正容自身であった。  藩士の妻である身で、それを黙って、側妾になっている、という後めたさは、お市を、まことに、ひかえめな、つつましい女にしていた。清三郎の措置《そち》が巧妙だったからである。  正容は、いつの間にか、お市を、愛していた。お市を手離したくはなかった。  しかし、自分が命じて清三郎に施させた措置で、こんどは、こちらが、当惑する番にまわされたのである。 「清三郎、与五衛門を説いて、あきらめさせては、どうであろう?」  正容は、言った。 「与五衛門は、この二年間、一日千秋の想いで、待って居りました。あきらめさせるわけには参りませぬ。それがしも、しかと誓ってみせたてまえ、違約いたすことはできませぬ」  清三郎は、厳然として、言った。  正容は、清三郎の鋭く冷たい眼眸《まなざし》を受けとめかねて、  ——勝手にせい。  と、胸中で吐きすてた。  五  お市が、笹原与五衛門に下げ渡しになったのは、出府して十日後であった。  お市は、奥御殿から、下げ髪、千代重ねの白無垢、綿帽子に面《おもて》を包んだ新婦すがたで、笹原家へ、輿入《こしい》れして来た。  祝言の座につらなった家中の面々は、まことに奇妙な気分であった。殊《こと》に、参勤《さんきん》行列をつくって来た人たちは、お市を、正式の側妾——若君のお腹様として、主君同様に、とりあつかって来たのである。その女性を。同輩の妻として、眺めさせられるのであるから、なんとなく、臀《しり》のおちつかぬ気分になるのは、むりもなかった。心の隅では、  ——ばかげている。  という、腹立たしい思いも湧こうというものであった。  媒人は、江戸家老がつとめ、高砂の謡《うたい》、一ト節をめでたく納めた。  新郎の与五衛門は、終始、こわばった、慍《おこ》ったような表情で、座っていた。  寝所には、床盃のしつらえがしてあり、与五衛門とお市は、それをとり交し乍らも、なお、互いに顔を見交すことはさけていた。  お市は、与五衛門が、褌《したおび》ひとつになって、褥《しとね》の上に胡座をかいても、そばへ寄らずに、俯向きつづけていた。  与五衛門は、苛《いら》立って、 「参れ!」  と、鋭く呼んだ。  お市が近づくや、与五衛門は、その胸から懐剣を取るのも、もどかしく、鞘をはらうと、その白無垢の帯を、しごきを、紐を切りはなち、突き倒して、前をはだけさせた。  二年前は、透けるように薄く、稚《おさな》かった肌が、正容の愛撫と出産で、豊かに熟して、餅のようにぽってりと厚みをおびていた。  与五衛門は、昂奮していた。目|晦《くら》むような嫉妬《しっと》の炎が、燃えあがっていた。この瞬間に於ても、忠義な家臣の吟味を忘れるな、と命じられたところで、それは無理な相談であった。主君正容は、この瞬間に於ては、憎むべき略奪者であった。二年間、この白い柔かな、美しい肌をむさぼっていた敵であった。  自分の知らないうちに、妻は、このように豊かにみのらされてしまっていたのだ。  与五衛門は、心中で、呻《うめ》きたて乍ら、まず、おのが下腹を、懐剣で、十文字に薄切った。それから、お市の下腹へ、切先を擬した。  その時、はじめて、お市は、眸子《ひとみ》をひらいた。  与五衛門は、恐怖の色を、その眸子の中にみとめるや、嗜虐《しぎゃく》の残忍を、嫉妬の炎へ油のようにそそいで、さっと、白刃をひらめかせた。  お市は、悲鳴をあげた。  ほんの形式に薄切る筈が、意外な深い傷を負わせてしまったのである。  与五衛門は、狼狽しつつも、なお、嗜虐の残忍性のおもむくままに、その傷へ、口を押しつけて、血汐をすすりはじめた。  お市は、苦痛に堪えかねて、身もだえした。すると、その身もだえが、いよいよ、与五衛門を逆上させた。  ——この女は、屹度《きっと》、昨夜も、殿に抱かれたに相違ないのだ!  与五衛門は、狂人のごとく、傷から噴く血汐をむさぼりつづけた。    与五衛門は、さいわいに、善良な性格の男であった。一時の嫉妬の情にかられて、妻をさいなんだのは、婚礼の夜だけであった。その後は、きわめて、ふつうの良人として、お市を愛した。  間柄睦じく、一年置いて、享保十二年五月には、富という娘も、もうけた。  不幸は、それから三年後に、夫婦をおそって来た。  会津第四世たるべき世子《せいし》正甫《まさもと》が急逝《きゅうせい》して、お市の産んだ容貞《かたさだ》が、世子になることになったのである。  会津藩としては、藩主たるべき世子の生母を、家来の妻にしておくわけには、いかなかった。  笹原家から離縁して、奥御殿へ召し還さねばならぬ、と重臣の評議で一決して、御用人高橋|外記《げき》、小川平兵衛が使者を命じられた。  司清三郎が、いたならば、ほかに巧妙な措置を講じたに相違ない。清三郎は、その前年、疫病《えやみ》に罹《かか》って、卒去《しゅっきょ》していた。  内意の趣きを通達された与五衛門は、断乎として、妻返還を拒絶した。  君命によって、縁組の決定する封建時代であった。離縁もまた、君命とあれば、おのれ勝手に拒絶出来ないことであった。  しかし、笹原夫婦の場合は、事情がちがっていた。与五衛門は、妻を主君に奪われて、二年間の忍耐ののち、ようやく、返してもらったのである。妻の産んだ子が世子になったからといって、また、返上せよ、と命じられても、容易に、受けられるものではなかった。  藩の重役が、それからしげしげと、笹原家へ足をはこんで、説得につとめることになった。  ようやく、父親の伊三郎が、笹原家は、自分たち親子だけの家ではないことを思い、数代の恩誼《おんぎ》ある主家に対して、違背の振舞いをしてはならぬ、と息子を説いた。  与五衛門から、妻市儀、世子の御生母の事ゆえ、返上つかまつる。と表向《おもてむき》に出願したのは、三月あまりの月日を置いてからであった。  しかし、もはや、すでに時機を逸していた。  重役は、御内意に違背した罪科をもって、笹原父子の食禄を没収し、国許へ押送《おうそう》して、滝沢組長原村という僻邑《へきゆう》へ押し込めた。  三男、四男、五男もまた、父兄の罪に連座して、若松の住居を追われ、親戚らまで咎《とが》めを蒙った。  ただ、次男久茂だけが、父兄を諫めて、君命に随順するように勧めたのを賞せられ、特に、四人扶持を給せられた。  お市は、若松城の奥へ、召還され、老女の格を与えられ、美崎《みさき》と改名させられた。  享保十六年九月、正容が、逝去した。  美崎は、重役のはからいで、養父塩見平右衛門の家へ帰された。その時には、その頭脳は、狂って居り、あらぬことを口走るようになっていた。  十二月、容貞は、保科家を相続して、会津藩第四世の主となったが、お市は、知らなかった。  翌年正月、笹原家が許されて、三人扶持を与えられることになり、与五衛門の行方がさがしもとめられたが、杳《よう》として判らなかった。  その年の初夏のある朝のことである。  塩見家の下婢《かひ》が、お市の部屋へ朝食の膳をはこんで行って、お市が、見知らぬむさくるしい浪人ていの男と折り重なって死んでいるのを発見して、仰天した。  お市も浪人者も、ともに素裸であった、という。  四谷怪談・お岩  一  延宝年間のことであった。  更衣《ころもがえ》のおわった、汗ばむほどあたたかな午後、四谷左門町の御先手《おさきて》同心組屋敷の田宮家の木戸を押して、青山百人町に住む同役の秋山長兵衛が入って来た。  あるじの田宮伊右衛門は、藍微塵《あいみじん》の単衣《ひとえ》に、片襷《かただすき》をかけて、傘張りをしていた。  秋山長兵衛は、縁側へ腰かけると、 「古着屋がふえるのう」  と、言った。 「いまに、組屋敷のまわりは、古着屋だらけになるのではないか」 「そうかも知れぬ」  伊右衛門は、手を休めずに、相槌《あいづち》を打った。  武家地——旗本御家人の住宅地の周辺に、古着屋が、どんどんふえはじめたのは、ここ十年あまりのことであった。それは、旗本御家人が、いかに、くらし向きが窮迫《きゅうはく》しているか、ということを示すものであった。  この四谷も、伝馬町、忍《おし》町、須賀町一帯は、片側はすべて古着屋になってしまっていた。  小禄の旗本御家人は、とうてい、呉服屋で衣服を買いととのえることはできなかった。古着屋|対手《あいて》に、売ったり買ったりで、間に合せなければならなかった。  もともと、古着屋という商売は、商人がはじめたものではなかった。  寛永の頃、諸方から野武士が集って来て、しきりに盗賊を働いた。町奉行所では、苦心して、その中の巨魁《きょかい》である鳶沢《とびさわ》豪太夫を生捕り、この男の度量を看て、逆に利用したのである。すなわち、鳶沢豪太夫に、野武士の取締りを命じ、古着買いという正業に就かせたのである。鳶沢豪太夫は、野武士どもに、ずらりと古着屋をひらかせ、鳶沢町という町をつくった。鳶沢町が富沢町と改められた頃、そこには、朝市が立ち、江戸名物のひとつとなった。  いわば、古着屋をひらくのは、浪人である、という不文律ができていた。浪人は、普通の町人どもに頭を下げるのは、いさぎよしとしない。あきない対手として、旗本御家人をえらぶ。旗本御家人の内証窮迫とあいまって、武家地の周辺に、古着屋がふえていく、ということになるのであった。 「おれも、御家人株を売って、古着屋をやりたくなったのう。いま、そこの店に寄ったら、お主の着ている藍微塵が、二分だ、とほざいた。ばかばかしい。売ろうとすれば、一分でもいい顔をせぬ。儲かる商売だ」  秋山長兵衛は、いまいましげに、吐き出した。  伊右衛門は、はじめて、視線を、長兵衛に向けた。洗い晒した真岡《もうか》木綿の単衣が、いかにもみすぼらしい。 「内職をせぬのか、お主?」  伊右衛門は、訊ねた。 「内職するよりは、博奕《ばくち》打ちの用心棒でもやった方がましだ」  長兵衛は、さもばかくさそうに、かぶりを振った。  御先手同心は、三十俵二人|扶持《ぶち》。一年に三十俵、それに一日一升勘定の二人扶持を加えただけでは、一人の下僕すらやとえない。  旗本は、俸禄の上では百石以上、九千九百石までをいい、百石以下を御家人と総称していたが、百石以下でも、毎日|裃《かみしも》をつけて勤める組付きの者は、ほかに手当がつくので、なんとかしのげるが、そうでない者は、ただの羽織袴勤めのひくい役柄のため、特別収入が絶無なのであった。  したがって、内職をせざるを得ないのであった。  内職をしなければ、飲みも食いもできなかった。  青山百人町の傘、根来《ねごろ》百人組の提灯、大久保百人町の植木、巣鴨|鷹匠《たかじょう》町、御駕籠町の羽根、そのほか、凧《たこ》張り、虫作り、小鳥飼い、針摺り、竹細工など、江戸中にちらばった御家人の組屋敷の内職は、産地とするほど有名になっていた。 「そういうお主も、養子に入って、相変らず、傘張りとは、気の毒だのう」  長兵衛が、笑い乍ら、言った。  摂州浪人の伊右衛門が、この田宮家に養子に入ったのは、秋山長兵衛の世話であった。  先代田宮伊織は、三年前死病に罹《かか》り、相続人を定めずに逝くと、家名断絶するので、一人娘のお岩に、伊右衛門を迎えたのである。  伊右衛門は、放浪者であったが、街を歩けば娘たちが振りかえるほどの美男子であった。  品川の質屋の、五十すぎた後家と通じて、少々の小遣いをせしめて、その日をしのいで来た男で、色男ぶりをその程度の売りものにしか出来ない、なんの才覚も持ち合せぬ小人であった。 「小金をため込んだ家だから——」  と、長兵衛にすすめられ、あるじの伊織が死ねば、その金がそっくり自分の懐中に入るものと早合点《はやがてん》して、ひどい醜女《しこめ》のお岩に我慢して、入婿になったのも、伊右衛門の小人の程を示していた。  婿に入って一月も経たぬうちに、伊織は、逝ったが、伊右衛門の皮算用は、まんまと、はずれてしまった。  家付き娘のお岩が、金の入っている抽斗《ひきだし》の鍵を、「父の遺言でありますゆえ——」と言って、伊右衛門に渡すのを拒否したのである。  二 「お主には、だまされた」  伊右衛門は、刷毛《はけ》をすてて、言った。 「お岩は、相変らず、|けち《ヽヽ》か?」 「話しにならぬ。一両とまとまって、出したことは、この二年間、一度もない」  小禄者の家に育った娘として、世帯、勝手元を締るのは当然であったが、お岩は、極端に要心ぶかかった。すくなくとも、伊右衛門の目には、生れつきの吝嗇《りんしょく》に映った。  田宮伊織は、壮年の頃、船手|頭《がしら》の下に同心を勤めて、房総往来の船舶を監視したが、いつの間にか、鯨船の差配の任務に就き、捕えた鯨の卸しに立ちあって、莫大な利をせしめた、という噂であった。 「五百両はのこして居る」  秋山長兵衛は、養子をすすめるにあたって、伊右衛門にそう言ったことである。  五百両は、誇張にすぎる、と思ったが、伊右衛門は、いまでも、その抽斗の中には、すくなくとも二百両はたくわえてある、と推測していた。 「近頃は、子猫さえも飼って居らぬ」  伊右衛門は、言った。 「しかし、お岩は、顔はまずいが、からだつきがよいではないか。閨《ねや》の技《わざ》をおぼえて、お主を満足させて居るのではないか」 「毎晩だ。これが、たまらぬ。味を知ってからは、嫉妬ぶかくなった。それでますます、小遣いを出し渋る。やりきれたものではない」 「そういえば、すこしやつれたのう」 「冗談ではない。わしの身にもなってもらいたい」 「質屋の後家に奉仕していた時の方がよかったか?」 「あれは、もう五十四の婆あだったから、月に一度、寝てやれば。金のほかに、わしに似合いそうな小袖や羽織を取っておいてくれたり、煙草入れとか巾着とか……、吉原に行く時などは、檳榔子《びんろうじ》塗の鞘《さや》の大小ととりかえてくれたり——」  そこまで、言って、伊右衛門は、あわてて、刷毛をとり上げた。  お岩が、用足しから戻って来たのである。  まことに、醜い菊石《あばた》の貌《かお》であった。右の眸《ひとみ》が小さく、生え際がぬけあがり、鼻梁は高いが、その恰好がみにくく、反《そ》っ歯で、笑えば歯ぐきがむき出しになり、顎が男のように角張っていた。それよりもいけないのは、顔面がひろすぎることであった。肌も黒かった。 「おいでなされませ」  お岩は、あきらかにいやな表情をして、視線をそ向けたままで、長兵衛に挨拶すると、奥へ入ってしまった。無心に来た、と受けとったのである。 「厚化粧だのう。どこかで、御殿風をおぼえたな」  長兵衛は、にやにやした。  伊右衛門は、急に立ち上ると、 「出よう」  と、言った。 「かまわぬのか?」 「金なら、すこしある」  伊右衛門と長兵衛は、お岩のつめたい眼眸《まなざし》に見送られて、家を出た。  組屋敷の小路から表の往還へ出る木戸を通り過ぎ乍ら、伊右衛門は、 「いっそ、毒でも盛ってやりたいくらいだ」  と、独語するように言った。  とたんに、長兵衛が、 「いい手があるぞ」  と、言った。 「なんだ?」 「お主は、今日から放埒三昧《ほうらつざんまい》の日をすごすのだ」 「そんな金があるか」 「借金の山をつくるのだ」 「当節、貸しで飲ませたり、抱かせたりする家があるものか」 「それが、ある!」  長兵衛が、伊右衛門をともなったのは、市谷田町の仕舞《しもうた》屋であった。  仕舞屋というのは、貸店を稼業にしている商売であったが、勿論、店の売買もやり、金貸しもしていた。 『ごんべい』  と、ひら仮名を紺暖簾《こんのれん》にそめ抜いたその家は、実は、仕舞屋は表看板で、数軒の家をあちらこちらにちらばせておいて、窮迫した御家人の妻女や娘に、そっと、春を鬻《ひさが》せている地獄宿であった。  あるじは、直助権兵衛、という全身|刺青《いれずみ》の悪党であった。  深川万年町の浪人医師中島|隆硯《りゅうけん》の下僕であったが、主人の妻女を手籠《てごめ》にして、財物を奪い去り、上方の方面に失踪して、数年を経て舞い戻って来てみると、旧主の中島隆硯がすでに病没していたので、これさいわいと、再び、その妻女に密通を強《し》い、蓄え金をのこらずまきあげて、この仕舞屋をひらいたのであった。  直助というのは、中島家の下僕であった時の名で、権兵衛は本名であった。  秋山長兵衛は、伊右衛門を店さきへ待たせておいて、奥に入って直助権兵衛に会い、しばらく戻って来なかった。  やがて、長兵衛は、権兵衛と一緒に姿を現すと、 「話はついたぜ」  と、伊右衛門に、笑ってみせた。  権兵衛は、伊右衛門と対坐すると、 「——つまり、お手前様は、おつれあいを、なんとかして家から追い出したい、といいなさるんですね……」 「まあ、そうだ」 「造作もねえ話ですがね、もし途中で、お手前様が、弱気をお起しになっちゃ、なにもかもご破算になりますぜ」 「あいつを追い出せるなら、鬼にでも蛇にでもなってみせる。しかし、|あいつ《ヽヽヽ》が、自分の生れた家から、どうして、なまなかのことで、出て行く、などと、想像もできぬ」 「あっしに、まかせておいて頂きましょう」  直助権兵衛は、にやりとして、おのが胸を叩いてみせた。  三  その夜、伊右衛門は、したたか酔って、帰宅した。  玄関へ迎えに出たお岩は、こんなに酔っている良人を視《み》たことがなかった。お岩は、良人の貌を美しい、と思った。 「おかえりあそばせ」  三つ指をついて、頭を下げ乍ら、お岩は、前を通りすぎて行く良人の足を眺めた。眺めた瞬間、お岩の全身を熱いものがかけめぐった。  お岩が、朝であろうと昼であろうと、良人の姿や動作を眺めているうちに、突如、肌が熱し、肉が疼《うず》くのをおぼえるようになったのは、半年ばかり前からであった。  その官能の発作に襲われると、お岩は、すべての虚飾《きょしょく》をかなぐりすてて、良人にしがみつきたかった。まとっているものをぜんぶ剥ぎとってもらい、からだをめちゃくちゃに玩弄《がんろう》してもらいたかった。  お岩は、一度、怺《こら》えきれずに、良人にいざり寄って、その膝へ両手を置いて、必死の哀願をしたことがあった。伊右衛門は、狂犬にでもとびつかれたように戦慄《せんりつ》の表情を返したばかりであった。  伊右衛門は、居間に入ると、刀を抛り出し、脇差を抜きすてて、どさっと胡座《あぐら》をかき、 「水!」  と、呶鳴った。  お岩は、酔眼を据えている伊右衛門の、やや蒼ざめた横顔を、惚れ惚れするほどの美しさに視た。  ——どこかで、若い女子《おなご》を抱いて来たに相違ない。  お岩の胸で、嫉妬の焔が、燃えあがった。  お岩は、もう三十三歳であった。伊右衛門は、二つ年下であった。  醜女で年上である引け目から、お岩は、誠心誠意良人につくして来たつもりであった。 「顔だけが女のねうちではないぞ。良人につかえ、家をまもり、子を育てる心掛けこそ——」  と、つねづね父伊織に言いきかされていたことを、まもって来たつもりである。  伊右衛門が要求する遊びの金を出ししぶったのは、実は、世間が取沙汰するほどの大金など、その抽斗にはなかったし、そのたくわえで、これからの生涯をたべて行かなければならなかったからである。  夜の営みに、異常なばかり欲求が強くなり乍ら、それを必死に押えることだけでも、お岩は、自分がいじらしいと思うのだ。  伊右衛門が、日毎に冷淡になって行くのが判りつつも、自分と似もつかぬ美男を良人にした果報ゆえのつらさと、我慢しようとしているお岩であった。  ただ、お岩にとって、おそろしいのは、良人を外の女に寝取られることであった。  お岩には、伊右衛門が、一歩外へ出れば、若くて人並みの女たちが、みな、自分から良人を取ろうと、待ちかまえているような気がしてならなかった。  世の中には、金を持って、退屈している、美しい囲いものが、たくさんいる。そういう女にとって、伊右衛門のような男こそ、ひそかにひき入れるにはうってつけなのだ。花魁《おいらん》や芸妓でも、伊右衛門のような美男ならば、間夫《まぶ》に持ちたいと思うに相違ない。  お岩は、良人が出て行って、夜まで戻らないと、いつも、他の女と褥《しとね》をひとつにしている光景が思い泛び、嫉妬で、からだが顫《ふる》えそうになった。そして、からだの奥では、矢も盾もたまらないほどの、欲情がもだえ狂った。  嫉妬の激しさは、自分がみにくいためなのだ、と押えることもできたが、狂いまわる欲情はどうするすべもなかった。あまりの狂おしさに、お岩は、おのが指を、そこへはこぶことがしばしばであった。  お岩は、湯呑みに水を汲んで、居間へもどって来て、伊右衛門にさし出した。  伊右衛門は、ひと息に飲んでから、じろっと、お岩へ一瞥《いちべつ》をくれると、 「酒をくらっては、いかんのか!」  と、呶鳴った。 「いえ——。たまには、外でお愉《たの》しみになっても……」 「心にもないことを申すな。……おれは、これからは、飲むぞ。飲んで、女を買って、博奕を打って——くそ、おもしろ、おかしゅう、くらしてくれるわ」  お岩は、黙って、立つと、牀《とこ》をとりはじめた。 「おいっ! いいか——おれは、もう、貧乏ぐらしには、あきあきしたぞ。これからは、市井《しせい》をねりあるいて、やりたいことをやってくれる。誰にも遠慮するものか。やるぞ! 見ていろっ!」  伊右衛門は、のべられた牀《とこ》へ、どたりと仰臥《ぎょうが》した。  お岩は、かたわらに坐ると、 「たまに、うさをおはらしになるのは、一向にかまいませぬが、……そんなお金を、もし、悪事などで——」 「うるさいっ! つべこべ申すな! たった一両さえ、おれに、渡してくれたこともないくせに、小ざかしゅう諫める資格など、お前に、あるか」 「あの……、実は——」  お岩は、伊右衛門の肩へ手をかけようとした。 「うるさいっ!」  伊右衛門は、その手をはらいのけた。  お岩は、痛さに顔をしかめた。  抽斗の中にある金子《きんす》が、伊右衛門の想像を裏切って、意外にすくないこと、それを大切にしなければ、わが家の内証は数年にして破滅状態にたちいることを、話そうとしたのであったが……。 「ひどい!」  お岩は、うらめしく、伊右衛門を、にらんだ。 「なにが、ひどい!」  伊右衛門は、はね起きるや、 「このあまっ!」  いきなり、頬桁《ほおげた》へ平手打ちをくれた。 「貴方っ!」  お岩は、かっと、大きい片目の方をさらに大きく、ひき剥いた。伊右衛門は、一瞬、背筋に悪寒《おかん》が走るのをおぼえた。  髷《まげ》を傾けた厚化粧の顔が、行燈《あんどん》の灯を半面に受けて、炎のゆらめきに、陰翳をゆらめかしているさまが、化物そっくりであった。 「わたくしが、こんなに、家のことを、貴方のことを、思って……」 「黙れっ! 化物めっ!」  伊右衛門は、憎悪《ぞうお》というよりも、恐怖で、力まかせに、お岩を蹴とばした。  倒れるはずみに、膝が捲《まく》れ、裾が散り、赤い湯文字が出た。  脛《はぎ》が白ければ、なまめかしさがあったろうが、どす黒い皮膚の内股まであらわになったさまは、かえって、湯文字の緋色がいやらしいものに眺められた。  ——人三化七《にんさんばけしち》の醜婦が、三十三にもなって、こんな赤いものをまとやがって!  伊右衛門は、嘔吐を催しそうな嫌悪感にかられた。  四  四更を告げる鐘の音がひびいた。  お岩は、牀の中で、大きく眸子《ひとみ》をひらいていた。  良人から暴力を受けたのは、今夜がはじめてであった。擲《なぐ》られた頬に、蹴られた胸に、まだ、痛みがのこっていた。  しかし、心の中には、口惜しさも悲しみも、のこってはいなかった。華奢《きゃしゃ》なからだつきをした美男の良人に、意外にも、暴力をふるう荒々しい気象があったことが、あたらしい発見であった。  お岩は、擲られ、蹴られた刹那、ふしぎな快感で、全身がしびれたのを、いまも、おぼえている。伊右衛門に、もっと擲ったり、蹴ったりしてもらいたい、という気持が、いま、心の底にうごいていた。ずっと以前から、自分は、こんな暴力を、良人に求めていたような気さえした。  伊右衛門は、小遣いをせびる時をはじめ、家付きの女房に対して、いつも、機嫌をとるような、目色をうかがうそぶりを示していた。それが、お岩には、物足らなかったのである。もっと堂々と、良人らしく、威厳のある、自信をもった態度を、示してもらいたかったのである。  今夜、はじめて、暴力をふるわれて、お岩は、良人にも男らしい力があった、と知った。それが、うれしかった。その力で、自分を素裸にして、めちゃにめちゃに、もてあそんでくれたら、どんなにうれしいだろう。  自分をしばりあげて、息の根がとまるほど、擲ってくれても、蹴ってくれても、さいごに、抱きしめて、からだをひとつのものにしてくれたら……、と想像すると、お岩は、想像しただけで、快感が、波紋のように全身へひろがって来た。  お岩は、頭を、そっと擡《もた》げてみた。  今夜は、牀をかなりはなして敷いてあったが、お岩は、わざと、行燈の灯を、細くしただけで、消してはいなかった。  むこう向きにやすんでいる良人の背中や肩や腕を、じっと瞶《みつ》めているうちに、お岩は、血が熱くなるのをおぼえ、女の秘部がじんわりと濡れて、濡れたためにすこしずつふくれて来るような気がした。  ——撲《う》たれてもいい!  お岩は、そう自分に言いきかせると、思いきって起き上り、 「貴方!」  と、肩へふれ、顔を背中へ押しつけた。 「うるさいっ!」  伊右衛門は、片|肱《ひじ》で、お岩の肩を突きとばした。その痛みが、かえって、お岩の欲情を狂おしいものにした。  ——殺されてもいい! 「貴方! おねがいです!」  お岩は、夢中で、しがみついた。 「何をする!」 「おねがいです! わたくしを、抱いて——」 「化物っ! 反吐《へど》が出る!」 「なんと申されようとも、わたくしは、貴方を、はなれませぬ。はなしませぬ!……わたくしは、貴方がなくては、一夜も、すごせませぬ。……おねがいです! 抱いて——」 「こやつ! はなせっ!」  もみ争いがしばらくつづいた。  どちらも、喘《あえ》いだ。  そのうちに、伊右衛門自身も、豊かな胸の隆起や太股にふれているうちに、興奮して来た。 「よ、よし! 抱いてくれる」 「う、うれしい!」 「しかし、条件があるぞ」 「ききまする」 「なんでも、きくか?」 「はい、なんでも——」 「おれが、明日から、飲んで、買って、打っても、文句を言うな! 一言でも、文句をぬかしたら、おれは、もう絶対に、お前を抱かぬぞ!」 「申しませぬ。何も申しませぬ。貴方のお好きなように……。ただ、おもどりなされたら、屹度《きっと》、抱いて……わたくしを、満足させて下さるのであれば——」  お岩は、明日のことなどどうでもよかった。いま、この瞬間だけが、生きているすべてであった。大きく下肢をひろげて、良人を受け容れ乍ら、お岩は、歓喜で喘いだ。  良人の口が、乳首をくわえるや、お岩は、絶叫に近い声をほとばしらせて、身もだえた。  五  翌日——一日ごろごろしていた伊右衛門は、夕がたになって、 「出て来る」  と、言って、脇差だけ佩《おび》て、さっさと玄関へ出ようとした。  お岩は、良人がいまにそうするのではなかろうか、とおそれつづけていたので、  ——やっぱり、女ができたのだ!  と、かっとなった。 「金子もお持ちなさらずに——」  思わず、そう言った。 「出せ、と申しても、出してくれるお前ではあるまい」 「いえ、出しまする」 「出す?」 「はい」  お岩は、立って行った。  ——どういう風向きだ?  伊右衛門は、薄気味わるい思いで、待っていたが、もどって来たお岩から、思いがけず一両渡されて、眉宇《びう》をひそめた。 「どういうのだ?」 「ご自由にお愉しみなさいませ」 「どうも……妙な具合だな」  伊右衛門は、ちょっと照れた笑顔をみせた。  お岩は、心の裡《うち》で荒れ狂う嫉妬の情を、おもてに現すまいと、必死に努め乍ら、俯向《うつむ》いて、 「おもどりをお待ちして居りまする」  と、その言葉に意味をこめた。  伊右衛門が出て行くと、お岩は、大急ぎで、表戸の締りをして、裏口から走り出た。  良人が、どんな女と会うのか、つきとめたい衝動で、われを忘れていた。  半町ばかりの距離を置いて、良人の後姿をにらみつけ乍ら、尾行して行くお岩の形相《ぎょうそう》を視て、通行人たちは悸《ぎょ》っとなった。  お岩自身は、自分の醜い貌が、人間ばなれしたものになっていることをはずかしい、という意識など、なかった。  ——あの一両が、わが家にとって、どんなに大切な金か、考えようともせずに、頸や胸や手足に白粉《おしろい》を塗りつけた浮かれ女《め》に、くれてしまって……。  見知らぬ女と良人との、その場面を脳裡に描いているお岩は、周囲の視線などに心を遣う余裕などなくなっていた。  伊右衛門は、四谷から市谷へ抜け、片側にずらりと古着屋のならんでいる田町に入った。  ——こんな近いところに、女がいたのか!  お岩は、かあっと、血が頭にのぼり、思わず、足をはやめた。  途中で、伊右衛門が、振りかえりかけたので、お岩は、あわてて、かたわらの店の檐下《のきした》へ、身を躱《かわ》そうとした。とたんに、折助《おりすけ》ていの男に、ぶっつかった。 「何をしやがる、この化物め!」  したたか突きとばされて、お岩は、反射的に、懐剣に手をかけた。 「無礼なっ!」 「おっ! 抜こう、ってえのか、しゃらくせえ、人三化七のくせしやがって、無礼もへちまもあるけえ。抜いてみろい! 両国の広小路のどんどろ小屋から出張して来やがったひと踊りを、見料なしで、とっくり見物してやらあ。さあ、抜けっ!」  折助は、肩をいからせて、ほえたてた。  どっと、周囲に人垣がつくられた。  お岩は、抜くに抜かれず、さりとて、口惜しさで狂い出しそうになったまま、折助を睨みつづけた。 「勘七っ! 女を対手に、みっともねえまねはよせ!」  同じ渡り奉公らしい中間《ちゅうげん》が、人垣をわけて出て来ると、呶鳴りつけた。 「なに、むこうが抜こうとしやがるからよう——」 「いいから、消えな!」  貫禄をみせて、折助を去らせると、 「お嬢さん、おひさしゅうございます」  と、にこにこした。  七八年前、田宮家の下僕を勤めていた喜助という男であった。  主人の居間へ忍び込んで、手文庫の中から金子を盗もうとしたところを発見され、手討ちになろうとしたが、折よく来客があって、あやうく首と胴がつながり、そのまま、何処かへ逐電《ちくでん》したのである。  そんな小悪党でも、いまのお岩にとっては、すがりつきたい味方に思われた。  喜助は、何かこたえようとして、興奮のあまり、いたずらに肩を波うたせているお岩を眺め乍ら、 「よろしかったら、すぐそこに、てまえの懇意な茶屋がございます。そこで、お気分をしずめて、お帰り下さいまし」  と、優しく言った。  お岩は、こんなに優しく、鄭重《ていちょう》に扱われたのは、はじめてであった。  お岩の記憶にある喜助は、醜い自分に対しても、いつも親切で、よく気がつき、まめまめしく身を動かす中間であった。父の手文庫から金を盗もうとした、とあとできかされて、嘘のような気がしたものであった。  お岩は、喜助のあとにしたがった。良人の行く先をつきとめることは、もうあきらめていた。  伊右衛門が『ごんべえ』にあがって行くと、秋山長兵衛が、直助権兵衛の妾を対手に、酒をのんでいた。  妾は、片膝をたてて。赤い湯文字の蔭から、内股までのぞかせ乍ら、長兵衛に酌をしていたが、伊右衛門が入って来ても、べつに、居ずまいを直そうともしなかった。  ——出来ていやがる。  と思い乍ら、座に就いた伊右衛門は、 「今日から、夜更けてからでないと、帰宅せぬことにした」  と、言った。 「結構、結構——」  長兵衛は、頷いてから、伊右衛門に、盃をさし、 「田宮、お岩は、いくらぐらい金を握って居る? たしかめたことがあるのか?」 「たしかめたことはない。しかし、百両を下ることはあるまい」 「百両か。百両あれば、五年寝てくらせるのう。……百両まきあげて、お岩を売るか」 「売る?」 「百両まきあげても、お岩にくっつかれていては、どうにもならんだろう。売りとばしてしまえ」 「どこへ、売るのだ?」 「ここだよ、直助権兵衛が、引受けらあ」 「……」  流石《さすが》に、伊右衛門は、お岩を地獄宿の女にするのは、可哀そうな気がした。 「おいおい、権兵衛も言ってたぞ。弱気は禁物だってな。お岩は、閨ごとにはきちがいになる女だろう。なにも、亭主だけに抱かれていなくてもいい女だぜ。日毎、男が変った方が、かえって、ああいう淫乱には、冥利《みょうり》になるんだ。しっかりしろい。まず、最初は、おれが、やってこまそう」 「お主が——」 「やけるか?」 「い、いや……」 「ははは……。おれが、最初にやってこますのは、お岩に、万事観念させる一番手っとり早い方法さな。密通ということに相成るのだからな。お岩は、まともに、お主の顔が見られなくなる。そうなれば、あとは、急坂を、車にのせて落すようなものさ」 「……」 「どうした? そう言われて、お岩のからだに、未練でも起きたか?」 「ばかな——」 「まあ、それまでは、せいぜい、可愛がってやれ。ところで、話というのは、お岩を売りとばしたあとの、お主の身の振りかたについてだ」 「わしに、どうしろ、というのだ?」 「もう一度、養子に行かぬか?」 「養子に?」 「そうだ。おれの組屋敷の与力に伊藤喜兵衛というのが居る。現米八十石、蓄えもある。伊藤は、菊作りの名人でな、大奥の催しに、菊で飾る時、伊藤が一手に引き受けて居る。これは、大層な儲けになる」 「お主、田宮をすすめた時、鯨で儲けて五百両を蓄えた、と申したぞ」 「あれは、噂だ。こんどはちがう。おれが、この目で、伊藤が儲けているのを、見とどけている」 「娘がいるのか?」 「いる。これは、美人だ。掛値なしの逸品だ。お岩とは、月とすっぽん、雪と炭だ」 「ふうん?」 「但し、この梅という娘、おとなしすぎる」 「おとなしすぎるのは、結構だが……」  伊右衛門は、そう言って、長兵衛が視かえしたとたん、直感がひらめいた。 「その娘、痴呆だな?」 「いや、痴呆というのは、可哀そうだ。……ただ、幼い頃、暑気にやられて、すこしばかり、脳が弱くなっただけだ。人三化七の淫乱と比べれば、少々脳の弱い方がよかろう。親爺が死んでも、抽斗の鍵をお主に渡さぬ、というようなことはないぞ」 「それは、そうだが……」 「ともかく、一度、見合をせい。あまりの美しさに、脳の足りなさなど、どうでもよくなる。いいな?」 「う、うむ——」  伊右衛門は、長兵衛にまくしたてられて、つい、承諾してしまった。 「さあ、前祝いだ。景気よくやろう。お仙、女を集めて来い」  六  田宮伊右衛門が、秋山長兵衛にともなわれて、青山百人町の御先手組屋敷へ、伊藤喜兵衛を訪れたのは、それから十日あまり後であった。  眩しいほどの陽《ひ》ざしの中を、青山通りを並んで歩き乍ら、 「田宮、ごんべえへ夜な夜な現れて居るそうだな」 「その気になると、女にもてるものだ、と判った。さとという女が居るだろう。ぽっちゃりとした、小柄の、鼻のわきにほくろのある——」 「うむ」 「あの女が、欲得ぬきで、わしに惚れ居った。閨技《ねやわざ》は、抜群だ」 「では、ごんべえに、本当に借金をつくってしまったのだな」 「お主の責任でもあるぞ、長兵衛——」 「責任か。ははは……月下氷人だからのう。いろいろ、面倒をみなければならん」  ——伊藤家に入った伊右衛門は、調度を見わたして、  田宮家に入った時、裕福を感じたが、この家は、田宮家とくらべもならぬ豊かなくらしをして居る。  と、長兵衛の言葉が、嘘ではないのを知った。  現れた喜兵衛は、如才なさそうな、童顔《どうがん》の、いかにも小金を持っていそうな年寄であった。 「これは、どうも、わざわざ——」  にこにこして、挨拶《あいさつ》するのへ、長兵衛が、 「まアまア——かた苦しい挨拶は、抜きにいたそう。喜兵衛殿、これが、天下の色男田宮伊右衛門。飛鳥山《あすかやま》で、お宅のご息女が、見初められたのも、無理はござるまい」  と、言った。  伊右衛門は、飛鳥山の花見で、この家の娘に見初められたことを、すこしも知らされていなかった。  ——長兵衛の奴、この親爺から、五両もまきあげたか。 「まことに、行儀知らずの娘でござる。欲しい、と思い立ったら、泣きわめいてでも、手に入れずばおかぬ、子供のような娘でござってな。お許し下され。お手前に、妻女がおありとは、露知らずに、見初め申した」 「いや、それがしも、女房をすてて、婿《むこ》入りを企てて居る男でござる」 「ははは……似合いの夫婦というところでござるな」  長兵衛が、喜兵衛と伊右衛門を見くらべて、 「さア、話はきまった。浮世は万事、金金金、地獄の沙汰も金次第——。喜兵衛殿、伊藤家に、どれくらいの蓄《たくわ》えがあるか、教えて下さるのも、一興でござろうな」 「いや、それは……。まア、若夫婦が、質屋がよいをせずに、くらせる程度にはな」  そうこたえてから、喜兵衛は、手をたたいて、女中を呼び、娘の梅をつれて来るように命じた。  やがて、襖《ふすま》が、ひらかれた。  夜明け前から起き出て、この見合いのために、丹念によそおったに相違ない。こってりと厚化粧して、美しく文金島田を結いあげ、紅梅《こうばい》模様の振袖をまとって、三つ指をついた。 「おいでなされませ」  声も、綺麗であった。 「あでやか、あでやか——。どうだ、田宮、お岩とくらべてみろ。おれの申した通りであろうが」  長兵衛が、伊右衛門の肩をたたいた。  たしかに、眉目《びもく》もととのっていたし、肌も白く、ういういしかった。  ただ、顔を擡《もた》げたとたん、一皮|目蓋《まぶた》の眸子《ひとみ》が、焦点のぼやけた、いかにもたよりなさそうな薄い光を送り出しているのが、気になった。  伊右衛門の視線を受け乍ら、お梅は、それに対する反応は何も示さず、幼女が親から教えられた言葉を、復誦《ふくしょう》するのに一生懸命になっている表情そのままに、 「不束《ふつつか》な者でございますが、末長く、よろしくお願い、申しあげまする」  と、言った。  伊右衛門は、この痴呆《ちほう》の娘を、生涯背負って行くことの重さを思って、いささかうんざりしたが、同時に、箪笥《たんす》の抽斗の鍵をにぎってはなさぬお岩と比べて、外で遊興しても、いくらでもごまかせる気楽さも想像できた。  喜兵衛が、「よしなに——」と言いのこして、出て行くと、  長兵衛が、耳もとに口を寄せて、 「善は急げ、床へも急げ」  とささやいた。 「今日か?」  流石《さすが》に、伊右衛門は、あきれて、長兵衛を視かえした。 「生娘を抱くのに、チト気早やにすぎるが……」 「照れる柄か。……さては、田宮、お主は、まだ生娘を知らんな」 「実はそうだが——」 「はっはっは。めでたい」  長兵衛は、大声で笑っておいて、立ち上り、 「わしは、これから田宮家へ参ってな、始末をして来る」  と、意味ありげな気色をつくっておいて、さっさと出て行った。  七  田宮家では、お岩が、縁側《えんがわ》にぼんやり坐って猫の額ほどの庭に咲いている小手毬《こでまり》へ、うつろな視線を投げていた。  この花は、亡き父が愛して、丹精したのである。細い枝に裏面の白いノコギリ歯のある細長い葉をむらがらせ、新芽が出ると間もなく、小さな五弁の雪のような花をいくつも集めて毬のように、枝もたわわにかざるこの小手毬は、お岩が、物心ついた頃から、庭にあった。  年々歳々、花は同じに美しく咲くが、同じ家に住み乍ら、人の環境は、変ってしまう。  お岩は、微風にゆれる白い花を、眺めているうちに、ほっ、とふかい溜息《ためいき》をついた。  それから、懶《ものう》げに身を起して、箪笥へ寄った。  いま、お岩が、たよれるのは、箪笥の抽斗の中の手函《てばこ》に入っている金だけであった。  手函をとり出して、膝に置くと、蓋《ふた》をひらいた。  小判が十三枚。  亡き父から鍵を手渡された時には、五十六枚あった。五十六枚をかぞえた時には、ずいぶんゆたかな気持がしたことであった。  良人に一両、二両と使われて、こうして、残った十三枚の小判を眺めていると、身も心もすりへらしている自分のような気がして来る。  まわりの人で、自分を悪く言う者は一人もいない。顔はみにくいが、心はやさしく、良人によく仕え、世帯持ちもよい、という評判をもらっている。  しかし、お岩は、人に知られてはならぬ夜叉《やしゃ》を、自分の中に、看《み》ている。おのが肉体が、あさましいばかりに、昼となく夜となく燃え立って来るのを、お岩は、押えるすべを知らなくなっている。そのために、嫉妬の凄《すさ》まじさも、知った。  良人に、きらわれ乍ら、野良犬のように、邪慳《じゃけん》に突きとばされたり、蹴とばされたりし乍も、からだをすり寄せて、哀訴せずにはいられない生地獄を、夜毎くりかえしているお岩であった。  お岩は、その自分をみにくい、とは思わなかった。どんなにむごい仕打ちを受けても、燃えたからだを、良人に抱いてもらえば、そのまま、死んでもよかった。  自分の肉体の中に、婬魔《いんま》が巣食っている、と昼間の理性は考えるのだが、あさましいとは思わなかった。良人に抱かれるのが、妻のつとめであるならば、肉のよろこびがはげしければはげしいだけ、良人を愉《たの》しませることになる筈ではないか。そのために、狂い死にしてもかまわない、とお岩は、思う。  それにしても、それにともなう嫉妬の苦しさは、堪《た》え難《がた》いばかりであった。  外で——どこかの部屋で、伊右衛門が、自分にさせているような肢態《したい》を、見知らぬ女にとらせて、肉のよろこびの声をあげさせている光景を想像すると、総毛が逆立ち、全身がワナワナと顫《ふる》えて来る。  お岩は、庭さきに人の気配を感じて、われにかえった。  とっさに、小函をかくすようにかかえて、ふりかえると、秋山長兵衛が立っていた。 「ひどく沈んで居るな」  長兵衛は、薄ら笑って、 「上ってもよいかな」 「伊右衛門は、他出して居ります」 「いや、留守を見はからって参った」  長兵衛は、上って来ると、塗り剥《は》げた大小を抜いてなげ出した。その軽さは、中身が竹光《たけみつ》であることを示した。  胸をひろげて、 「暑くなって来たな。……ほう、それは、立派な蒔絵《まきえ》だな。その小函の中に、田宮家のたくわえがあるわけか」 「もう、いくらも、残っては居りませぬ」  お岩は、小函を抽斗にしまって、鍵をかけた。 「残って居らぬ、というても、百両や百五十両はあろうな」 「とんでもありませぬ。父からゆずられた時でさえ、百両もなかったのです」 「どうかな」 「いつわりを申したところで、どうなりましょう。そのわずかなたくわえが、毎日、伊右衛門から削られて、……外で何をしているのやら、近頃は、子《ね》の刻《こく》前に戻って来たことはなく……、いずれ、わたくしを、すてて、出て行ってしまうもの、と考えますと、いっそ、死んで——」  お岩は、そう口走り乍ら、長兵衛を睨《にら》んだ。良人を放埒《ほうらつ》に誘い込んだのは、この男なのだ、という恨みをこめた眼眸《まなざし》であった。  ——成程。嫉妬に狂うと、人間ばなれのした形相《ぎょうそう》になるな。  長兵衛は、背すじに、うすら寒いものをおぼえ乍ら、懐中から、十数枚の借用書をとり出して、 「今日は、いやな役目で来た。お岩さん、伊右衛門は、三十両ばかり借金をつくってしまった」  と、お岩の膝の前に置いた。  それらは、いずれも、市谷田町の仕舞屋《しもうたや》、直助権兵衛に宛てた、借用証文であった。  三両、五両と、この一年ばかりにつくった借金であった。  お岩の顔が蒼ざめた。 「秋山様。伊右衛門は、女子《おなご》をつくったのですね? え? そうですね?」  ——化物だ!  長兵衛は、お岩の凄《すさ》まじい形相《ぎょうそう》に、思わずぶるっと身ぶるいした。 「田宮は、色男だからのう」 「ど、どこに住んでいるのです、その女子は——?」 「まア待ちなさい、お岩さん。お前さんが、乗り込んでみたところで、はじまらぬ。女と別れさせるてだては、おれにある」 「ほ、ほんとですか?」 「約束しよう。女は性悪《しょうわる》ではない。いや、その反対に、右を向けと言えば、三年も右を向いているようなおとなしい女だから、べつに、追いはらうのに造作はないのだが、可哀そうに中風《ちゅうぶう》の父親や幼い弟妹をかかえて居る。別れさせるには、それ相当の手切れ金を渡してやらねばならぬ」 「……」  お岩は、長兵衛の言葉をそのままに受けとりかねた。 「ともかく、手切れ金のことは別として、とりあえず、この借金をどうするかだのう」 「わたくしには、払えませぬ」 「その箪笥の中のたくわえが、二百両もあるか、と思って、参ったのだが……」 「十三両しかのこって居りませぬ」  お岩は、投げ出すように、言った。 「たった十三両か」 「はい——」  長兵衛は、舌打ちして、腕を組んだ。 「どうすればよろしいのでしょうか?」 「もし、この借金が支払えなければ、伊右衛門は、田宮家の株を売らねばなるまいな」 「そ、そんな……、三百年もつづいた家の株を売るなど、そんなことは、断じて、できませぬ!」 「お岩さん——」  長兵衛は、表情を革《あら》ためた。 「はい」 「借金を返すてだては、ひとつしかない」 「どんなてだてが……?」  長兵衛は、こたえるかわりに、膝を進めて、いきなり、お岩の手を掴んだ。 「な、なにをなさるのです?」 「わしに、まかせてくれるか、お岩さん?」 「……」 「わしにまかせぬと、この苦境はきり抜けられぬぞ!」 「……」  長兵衛は、すっと立つと、縁側の障子を閉《し》めきった。  お岩の心臓は、早鐘のように鳴りはじめた。  八  長兵衛は、わざと、ゆっくりと、お岩のそばへもどって来ると、その肩へ手を置いた。 「お岩さん、そなたが、稀《まれ》にみるほどの上味のからだを持っていることを、わしは、以前から、知っていたぞ」 「い、いけません」  お岩は、長兵衛の両手をはなそうとした。  すると、長兵衛は、その腕を掴《つか》んで、お岩を、畳の上へ押し倒した。 「いや!」  お岩は、顔をそ向け乍ら、自分の方からすがりつくようにした。長兵衛の黒い胸毛を一瞥した瞬間、お岩は、われを忘れたのである。  長兵衛は、お岩が袂《たもと》で顔を掩《おお》うのを見下し乍ら、にやりとして、 「お岩さん。お前をよろこばせるのは、伊右衛門ばかりではないぞ」  と、ささやいた。 「……おそろしい!」  袂の蔭で、お岩が、呟《つぶや》いた。  長兵衛は、猿臂《えんび》をのばすと、お岩の前を捲《まく》った。  長兵衛の掌のものになった下肢は、滑らかで、冷たかった。  長兵衛は、五指を徐々に、内股の奥へすべらせ乍ら、  ——ひょっとすると、この女は、死んだら幽霊になって、自分が契《ちぎ》った男どもを、つぎつぎと、とり殺すかも知れんぞ。  そんな予感が起った。  長兵衛の一指が、|そこ《ヽヽ》にふれた刹那《せつな》、お岩は、忽ちおそろしい呻《うめ》き声をたてた。  幽《かすか》な澗《たに》あいは、もうすでに濡《ぬ》れて、しとどに、長兵衛の指に粘《ねば》りついた。そして、その奥は、沸泉《ふっせん》のように熱していた。  長兵衛は、したたかに時間をかけて弄んでやる親切心はなかった。どうやら、その必要もなさそうであった。  のしかかった長兵衛は、お岩の両足くびを掴んで、真一文字に、大きく、ひき裂くように、拡げさせた。 「ああっ!」  白昼、あられもない肢態をとらされたことが、烈しい被虐《ひぎゃく》の刺激となり、官能を疼《うず》かせ、脳天から、足先までの細胞を躍《おど》り狂わせるのか——、お岩は、われを忘れた嬌声《きょうせい》を放って、身もだえた。  やがて、立てきった障子から、陽ざしが退《の》いて、薄闇がただよった頃あい、長兵衛は、やっと凄じい力でしがみついたお岩の四肢を解いて、起き上ることを許され、ふうっとひとつ深く吐息した。  長兵衛が、身じまいをととのえた時、ようやく、お岩が起き上って、台所へ行き、行燈《あんどん》に灯を入れて、戻って来た。  長兵衛は、ぞくっと、悪寒《おかん》をおぼえて、首をすくめた。  行燈の光を下から受けて、身もだえで乱れた髪のまま、俯向いて入って来た姿は、まさに、幽霊そのものであった。  ——途方もない女を抱いたものだ。  醜怪な面貌《めんぼう》と、その反対に、万人に一人も居るまいと思われるほどの肉体を持ったこの女に、長兵衛は、はじめて、微かな恐怖さえおぼえた。  お岩は、行燈を置いて、坐ると、俯向《うつむ》いたまま、 「……はずかしい」  と、呟いた。 「お岩さん。すまぬが、明日から、|ごんべえ《ヽヽヽヽ》へ、手伝いに行ってもらおうか」  長兵衛は、わざと、事務的な口調できり出した。 「えっ?」 「|ごんべえ《ヽヽヽヽ》で手伝ってくれれば、わしが、伊右衛門の借金を棒引きさせる」 「わたくしに、下女の真似をせよ、と言われますのか」 「いや、ちがう。仕舞屋というのは、表向きは、貸店や、店の売買いを稼業《かぎょう》にしているが、本当の儲けは、家を数軒、あちこちに置いて、そこで、そっと、御家人の女房や娘に、春を鬻《ひさ》がせて居る。その御家人の女房や娘に、お前さんから教えてもらいたいのさ」 「何を、教えるのですか?」 「閨《ねや》の技《わざ》さ。……女が男をよろこばせるには、どうすれば、いいか——」 「そ、そんなこと……」 「ははは……。御家人の女房は、閨技をまるっきり知らん。ただ、大根のように、ころがっているだけで、客に身をまかせて居る。それで、法外な金を取るとは、図々しすぎる。吉原の花魁《おいらん》なみの金を要求しておいて、客に抱かれるのを、まるで地獄の責苦に遭《お》うたようなあんばいで、忍耐して居る。これでは、客がにげる。たとえ、春を鬻《ひさ》ぐのであろうとも、女はやはり女らしゅう、男をよろこばせてもらいたい。そして、自分もよろこぶ。その手ほどきは、お前さんを措《お》いて、ほかにはないね」  九  伊右衛門が、帰宅したのは、長兵衛と殆ど入れちがいであったので、お岩は、どきっとなった。  生れてはじめて、良人にかくさなければならぬ秘密を持ったお岩は、良人に看破《みやぶ》られはせぬかという恐怖心で一杯になった。  伊右衛門の方は、いつにない、はればれとした表情で、 「お岩、相談があるぞ。金のことではないから、心配するな」  と、言った。 「はい」 「まず、そなたが慍《おこ》ることを、打明ける。わしは、女をつくって居った」 「……」  お岩は、意外にも、良人の口から、きかされて、ほっとなった。 「気弱な女だが、扶養《ふよう》しなければならぬ家族をかかえて居る。本日、わしが、別れると申したら、吉原へ身を売るよりほかはない、と泣いて居ったが、そうもさせられぬ。やむなく、秋山と同じ組屋敷の与力の伊藤喜兵衛殿から、十両借りて、手切れの金として、渡した。十両ではどうにもなるまいが、わしも、これ以上は、面倒を見きれぬので、やむを得ぬ。実は、女のために、三十両も借金をつくってしまって居る」 「……」  お岩は、俯向いて、黙っていたが、内心では、良人の正直さに、感謝していた。 「借金を、お前に返してくれ、とはたのまぬ。わしの独力で返してみせる」 「え?」  お岩は、びっくりして、良人の顔を視た。  伊右衛門は、いかにも決意をかためた面持で、 「心機一転——わしが、放埒の泥沼から足を洗う秋《とき》が参ったのだ。伊藤喜兵衛殿から十両を借りた時、仕事をたのまれた。伊藤殿は、菊作りの名人で、大奥にかざる菊を、一手に引受けていなさる。これは、大層な金になるらしい。伊藤殿が申されるには、菊を作る土地として、甲府が最も適して居る旨を、かねて、奥祐筆《おくゆうひつ》まで申し入れておいたところ、このたび、許可になり、甲府城の南方の空地三千坪が与えられたそうな。伊藤殿は、約二年の予定で、甲府へ参られて、菊作りに専念される。ついては、わしを助手として、ともなおう、と申されるのだ」 「甲府勤番を命じられるのですか?」  お岩は、暗い表情になった。  甲府勤番は、俗に山流しと称され、落度のあった旗本御家人が、懲罰《ちょうばつ》の意味で、命じられるのであった。 「いや、甲府勝手ではない。二年つとめれば、戻るのだ。その二年のあいだにも、自由に江戸へもどって来ることができる。ただ、甲府の土地が菊作りに適しているから、伊藤殿がえらんだまでのことだ。……伊藤殿は、わしという男が気に入った模様でな。菊作りの秘訣を、わしに伝授しようと、約束して下されたのだ。……いい話であろうがな。伊藤殿は、もう五十を越えていなさる。伊藤殿が、逝かれたあとは、わしが、大奥をかざる菊を、一手に引受けることになるのだ。よろこんでくれ」 「伊藤殿には、ご子息もお娘御も、おありなさらぬのですか?」 「菊を作るのに夢中で、子をつくるのを忘れていた、と笑って居られた」  お岩は、良人の話を信じた。  ただ、良人にしばらく別れなければならないことが、不安であった。  勤番ならば、一緒に行けるが、出張なら、伊右衛門が単身おもむいて、妻は江戸で留守をまもることになる。  お岩の脳裡《のうり》を、秋山長兵衛の俤《おもかげ》が掠《かす》めた。  良人が留守になれば、長兵衛に抱かれることになろう。長兵衛に抱かれているうちに、良人を忘れるのではなかろうか。  ——いいや! 立ちなおろうと決意して、甲府へおもむきなさる人を忘れてなろうか。その留守のあいだに、わたしは、働いて、借金を返しておこう。 「お岩、よいな。しばらく、一人で、この家をまもっていてくれ」 「はい」 「半年に——いや、三月に一度は、戻って参るぞ」 「お待ちして居ります」 「承知してくれて有難い。さてと、相談がすむと、急に、腹が空いて来たぞ。湯づけをくれ」 「はい、ただいま——」  お岩が、台所へ立って行くと、伊右衛門は、ごろりと仰臥《ぎょうが》して、にやりとした。  ——こうも、うまく筋書きがはこぶものとは思って居らなんだが……。  つい半刻前までは、伊藤家の奥座敷で、お梅の白い躯を抱いていた伊右衛門であった。  生娘をあじわった快感が、まだ、五体にのこっていた。  湯漬けを喰べおわると、伊右衛門は、お岩に、牀《とこ》をのべさせた。  お岩が派手な長襦袢《ながじゅばん》姿で入って来ると、伊右衛門は、自分の行状は棚に上げて、急に、嫉妬をおぼえた。  長兵衛とは、打合せの場所で落ちあって、その口から、お岩をものにしたことをきいていたのである。  顔を胸にうずめて、すがって来たお岩を、思いきり虐待したい衝動に駆られつつ、 「お岩、お前のからだは、三月も孤閨《こけい》に堪えられぬのではないか」  と、言った。 「いえ、いえ……、そんな——。わたくしは、貴方だけに……」  お岩は、狂ったように、しがみついて来た。  伊右衛門は、片手を下へのばすと、秘所をさぐって、  ——化物め! さっきまで、長兵衛に、さんざ、ここを、弄《なぶ》らせて居ったくせに、何食わぬ様子をし居って!  と、胸の裡で叫ぶと、これから、どんな残忍なさいなみかたをしてやろうか、と武者ぶるいした。  十  三日後、伊右衛門は、伊藤家へおもむくと、喜兵衛に会い、 「田宮の家の方を、どうやら、片づけて参りました」  と告げた。 「どう、片づけなされたのか?」  喜兵衛は、にこにこし乍ら、訊《たず》ねた。 「市谷に、|ごんべえ《ヽヽヽヽ》と申す仕舞屋がありますが、そこへ売りました」 「よう納得したものじゃな!」 「それがしは、甲府に参って、働いて、借金を返すことにしたと申し……」 「それにしても、地獄宿へ行くことを、妻女は、よう承諾したものだ」 「おはずかしいこと乍ら、お岩は、天性の淫乱《いんらん》にて、一夜も、男に抱かれぬと、おさまらぬ女でござる。秋山が、お岩のからだを試《ため》して居ります。あのような淫婦には、春を鬻がせるのが、最も適材適所——、当人も、馴れれば、本望と存じます」 「ははは……、いざとなると、男は、残忍なものじゃな。伊右衛門殿、わしが亡くなったあとで、お梅を女郎などに売りとばしてくれては、困るぞ」 「冗談ではありません。梅殿は、妻として、この上ない可愛い女性《にょしょう》でござる」 「たのみ申すぞ。……奥で、お梅が待って居り申す。可愛がってやって下され」  伊右衛門が、自分たち夫婦の居間に定められた座敷に入ると、お梅は、無心に、お手玉をとっていた。 「あら——お越しなされませ」 「お越しではなかろう。お戻りだ」 「はい。お戻りなされませ」 「今日から、わしは、そなたと、ここに住むのだ」 「はい。夫婦《めおと》ですから——」 「どうだ、うれしいか?」 「はい、うれしゅうございます」 「では、早速、可愛がろうか」  伊右衛門は、お梅の肩を抱くと、片手を、胸へさし入れて、ふっくらと盛った乳房をとらえた。  お梅は、くすぐったがって、身をくねらせて、けらけらと笑い声をたてた。  ——頭脳は足りぬが、この若い、白い柔《やわ》肌は、絶品だ。喜兵衛が死ぬまでは、たっぷり可愛がってくれる。  伊右衛門は、抱いた腕に力をこめ、乳房をぎゅっと掴《つか》みしめた。  同じ日——。  お岩は、秋山長兵衛にともなわれて、市谷見附から田町への往還《おうかん》を歩いていた。  良人伊右衛門は、昨日甲府へ向って発足《ほっそく》した、と信じ込まされているお岩であった。  お岩は、長兵衛がわが家に現れると、すぐに、その手がのびて来るものと期待し、そう期待する自分があさましかったが、長兵衛は、よそよそしい態度で、 「|ごんべえ《ヽヽヽヽ》へ参ろう」  と、促したのである。  お岩は、わざと、時間をかけて、着がえをしたが、その衣ずれの音も、長兵衛の欲情をそそることにはならなかった。  お岩は、あきらめて、着がえをすませて、長兵衛の前に出ると、 「もう、この江戸で、わたくしが、おすがりするのは、秋山様しかありませぬ」  と、言った。  長兵衛は、その言葉の裏に含む意味を読みとり乍らも、そ知らぬ態度で、 「勿論——、伊右衛門からも、くれぐれもよろしく、とたのまれて居る。……さ、参ろう」  と、立ち上っていた。  往還をひろいはじめると、お岩も、情念をすてて、これから訪れる仕舞屋がどんな家か、見当もつかぬ不安で、足もとに目を落して、一歩一歩に重いものを感じていた。  片側に古着屋のならんだ田町に入った時であった。  すれちがいかけた一人の中間《ちゅうげん》が、 「おや——」  と、お岩へ目をとめた。  先日、やはり、この通りで、無頼の折助にからまれているお岩をたすけてくれた喜助であった。 「お嬢さん——」  呼びかけられて、お岩は、視線をまわし、 「あ——喜助殿。先日は、有難う存じました」 「今日も、こちらにご用でございますか?」 「ええ——」  お岩は、長兵衛に先に行って待っていてくれるようにたのんで、喜助のそばに寄ると、 「良人が借金をつくって、それを返すために、このさきにある|ごんべえ《ヽヽヽヽ》という家で、働きます」 「|ごんべえ《ヽヽヽヽ》ってえと?」 「仕舞屋です」 「あ——直助権兵衛の店でござんすね。……あいつは、悪党だ。いったい、そこで、どんな働きをなさるんで?」 「女子衆に、いろいろと……礼儀作法を——」 「直助権兵衛が、かかえている女子めは、夜鷹《よたか》ですぜ。そいつらに、礼儀作法も、くそも、あるめえが……」  喜助は、首をかしげた。  喜助も、律義な中間にみせかけているが、相当な悪党であった。  蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で、お岩が、|ごんべえ《ヽヽヽヽ》に働きに行く、ときいて、  ——騙《だま》されているんじゃねえのか?  と、五感にピンとひびくものがあったのである。  十一  お岩は、長襦袢《ながじゅばん》一枚で、高手小手に縛られて、板敷きにころがされていた。  むき出された肩や、胸や、太股《ふともも》に、凄じい蚯蚓脹《みみずば》れができていた。血汐がじくじくと流れて出ている箇処《かしょ》もあった。直助権兵衛から、鹿皮の鞭《むち》で、思いきり、なぐりつけられたのである。  この仕舞屋《しもうたや》は、ただの店ではなかった。抱えの女に礼儀作法を教えるどころではなかった。  秋山長兵衛にともなわれたその夜だけは、事なく過ぎたが、次の日から、お岩に要求されたのは、客を取ることであった。  お岩が堪忍《かんにん》してくれ、と許しを乞うと、たちまち、権兵衛の態度が、豹変《ひょうへん》した。  お岩は、伊右衛門がつくった十数枚の借用証文をつきつけられ、罵倒《ばとう》のかぎりをつくされた。  挙句《あげく》、この薄暗い納屋の板敷きで、凄じい折檻《せっかん》を受けることになったのである。  全身の疼《うず》きに堪え乍ら、しめったかびくさい板敷きにころがされていることに、しかし、お岩は、苦しさも悲しみもおぼえていなかった。いや、かえって、奇妙な、快感に似たものさえおぼえていた。  縛りあげられ、鞭を振り下された瞬間には、恐怖と激痛で、悲鳴をほとばしらせたが、芋虫のようにころがりまわり乍ら、悲鳴をあげているうちに、ビシッビシッと鞭が肌に食い込むたびに、その疼きにふしぎな快さがともなうのをおぼえはじめたのである。 「辰っ! 売りものを殺すねえ」  納屋の外から権兵衛の声がかかり、三下《さんした》が鞭を振るのを止めた時、お岩は、もっと打擲《ちょうちゃく》されたいような気持さえ、わかせていた。  そのまま、すてておかれて、もう半刻近くになる。  納屋の戸が、ひき開けられた。 「お岩さん、ひどい目に遭って居るのう」  秋山長兵衛が、入って来て、そばに蹲《しゃが》むと、顔を覗《のぞ》いた。 「秋山様は、わたくしを、欺《だま》したんですね」  お岩は、長兵衛を、睨《にら》みあげた。  長兵衛は、その形相に、微かに身顫《みぶる》いしたが、ふと、その表情が、湛《たた》えているのが、苦痛や絶望の色ではないのをみとめた。  不意に——。  長兵衛の猿臂《えんび》がのびた。 「な、なにをするのです!」  お岩は、膝を合せて、腰をねじった。  長兵衛は、にやにや笑い乍ら、二布《こしまき》の蔭をさぐっておいて、指を抜いた。 「お岩さん、やっぱり、お前さんは、ただのからだの持主じゃなかったな……。この指が、|やけど《ヽヽヽ》をするほど、熱くなっているとは、大層なしろものだ」  長兵衛が、細引を解いてやると、お岩は、いきなりしがみついた。 「ど、どこかへ、つれて行って下さい。……どこへでも、つ、ついて行きます」 「浮世のしくみは、面倒なものでな。秋山長兵衛も田宮伊右衛門も、尾羽《おは》打ち枯らして居っても、天下の直参だ。借金を踏み倒して、女をつれて、にげるわけにはいかねえ。お岩さん、辛抱しな。お前さんのからだは、一晩も男がなくちゃいられねえようにできているのだ。男を喜ばせ、お前さん自身も悦《よろこ》ぶ——この稼業は、宿世《すくせ》のさだめ、ってえやつかも知れねえ」 「いいえ……、いいえ……! わたくしには、伊右衛門という良人が居ります」 「おっと! お岩さん、その切り札は、おれにはもう通用しないぜ」 「……」 「ははは……。三月も経って、馴れてみな。お前さんにとっては、こんないい稼業はなくなるぜ」  長兵衛は、お岩の肩を、たたいた。  次の夜から、直助権兵衛が各処に置いてある家へ、そっと忍んで行くつとめが、はじまった。  客は、お店者《たなもの》と武家屋敷の小者が多かった。直参の妻女や娘が抱けるということは、武家町屋の奉公人どもに、一種の復讐心を満足させることになるのであった。  ただ、お岩が部屋に入ると、殆どの客は、悸《ぎょ》っとなって、抱きしぶった。しかし、なだめられて、しぶしぶ同衾《どうきん》するや、たちまち、お岩の情熱にまき込まれて、なにやら自分が稀代《きだい》の色事師になってるような気になり、つづけてかよって来る者も現れるしまつだった。  お岩自身は、それらの家へ忍んで行く途中は、けがれた身を人目にさらすはずかしさに、顔も擡《もた》げられない思いであったし、客の前へ出て、悸《ぎょ》っとされるたびに、屈辱感でいたたまれなくなったが、ひとたび、褥《しとね》に入ると、自分をあさましいと顧《かえりみ》るいとまもなく、からだが燃え立ち、男の手がふれるかふれぬうちに、もう濡れていたのである。  お岩が、伊右衛門のことを想い出して、胸が締めつけられるのは、『ごんべえ』の二階の、臭気のこもった、畳のじめじめした三畳間で、ひっそりと坐っている昼間であった。  もはや良人の前へ出られないけがれたからだになってしまい乍ら、なお、お岩は、田宮伊右衛門の妻であることを忘れられなかった。良人がつくった借金を払うために、犠牲になっている、という気持があったし、からだはどんな男に対してもあさましく開いてしまうものの、心だけは良人のものだ、と誓《ちか》って、それを唯一の生きる拠りどころにしているようであった。  十二  三月|経《た》った。  その宵《よい》も、お岩は、お高祖頭巾《こそずきん》で顔をつつんで、その家へかよって行き乍ら、  ——悪い病いをうつされたのだろうか?  と、不安をおぼえていた。  右目の目蓋《まぶた》が、急に腫《は》れて来たのは、十日ばかり前からであった。朝、目が覚めたら、右の目が開かないので、手をやってみると、ぷっくりと腫れあがっていた。痛みはなかったが、鏡に顔をうつしたとたん、どきりとなった。腫れた部分が、むらさき色に変じていて、醜《みにく》い貌《かお》は、妖怪じみていた。  冷水でひやして、三日あまり寝ているうちに、どうやらむらさき色だけは引いたが、腫れは癒《なお》らなかった。この顔を一瞥《いちべつ》しただけで、断る客が多くなった。  ——今宵も、ことわられるかもしれない。  お岩は、ことわられることに、悲しさはなかった。ただ『ごんべえ』の二階へ戻って、一人で寝るのが堪《た》え難かった。狂い出したくなるほど、からだが燃え立って、処置のすべがなかったのである。階下に寝ている権兵衛に願って、抱いてもらおうか、と起き上ったことさえある。  一晩も、男に肌を弄《なぶ》られずには済まされないようになってしまっていたのである。  その家へ上って行くと、まかない婆さんが、 「客は折助だよ。前金を取っちまいな」  と、言った。  二階へあがって、 「ごめん下さいませ」  つつましく、唐紙を開き、腫れた醜い半面を見せないように、横を向き加減にして、三つ指をついた。 「お嬢さん——。あっしでさあ」  客は、言った。お岩は、顔を擡《もた》げて、折助が喜助であるのをみとめて、身をすくめた。  喜助は、笑って、 「お嬢さんと承知で、呼んだんでさ。客にしてもらいますぜ」 「お前を、客には、できませぬ」 「遠慮なさるには及ばねえ。お嬢さんは、もう田宮伊右衛門の奥方じゃありませんからねえ」 「いえ、わたくしは、まだ、離縁されては居りませぬ」  喜助は、せせら嗤《わら》うと、小声で、 「あわれや、なんにも、ご存じねえ」  と、言った。 「え? なんと申しました?」 「お嬢さん、伊右衛門旦那は、お嬢様を、なんと言って騙《だま》して、家を出て行ったのですかい?」 「青山百人町の御手先組屋敷の、伊藤喜兵衛と申される与力と一緒に、甲府で菊作りをして参ると——」 「なるほど、うめえことを、のたもうたものだ。冗談じゃねえ」  喜助は、かぶりを振ってから、「ま——話はあとだ」と、掛具《かけぐ》をあげて、お岩を促《うな》がした。お岩は、長襦袢姿を、喜助のそばへ横たえると、 「伊右衛門が、わたくしを、騙したのですか?」  と胸の裡《うち》をさわがせつつ、喜助を瞶《みつ》めた。  喜助は、その貌の薄気味悪さに、頤《あご》を押してそむけさせておいて、片手を下にのばし、長襦袢と二布《こしまき》の前をひきあけると、腿《もも》の内奥へ五指をすべり込ませた。 「お嬢さんは、一万人に一人という上味のからだを持っていなさる、というもっぱらの噂ですぜ」 「喜助殿、きかせて下され。……伊右衛門は、甲府へ参ってはいないのですか? この江戸にいるのですね?」 「話は、あとのことよ」  喜助は、お岩の豊満な胸へ、顔をうずめると、その秘所をせっせともてあそびはじめた。  ——良人に騙されている?  その不安に襲われ乍らも、お岩は、みるみる、五体をひたして来る官能の波に、抗すべくもなく、ひくく、呻《うめ》いて、身もだえた。  殆ど格闘にも似た凄じい営みを了《お》えてから、喜助は、腹匐《はらば》って、煙管《きせる》をくわえた。  かたわらで、お岩は、死んだように、ぐったりとなっている。  喜助は、旨《うま》そうに、紫煙の輪を吐いて、 「伊右衛門の旦那は、青山百人町の、その伊藤喜兵衛さんの家に入り込んで居られます」  と、言った。 「え?!」  お岩は、喜助を視《み》た。 「それもただの居候じゃねえ。入婿《いりむこ》ですぜ」 「そ、それは、本当かえ?」  お岩は、はじかれたように、はね起きた。  喜助は、その形相《ぎょうそう》を仰いで、背筋を、冷たいものが這い上るのを感じた。  ——化物だ!  こんな化物を、抱いて、夢中になったのが、おぞましくなった。 「嘘ではあるまいな、喜助殿!」  喜助は、褥《しとね》から遁《に》げるように匍《は》い出すと、 「嘘をきかせても、はじまりませんや。伊藤の家には、お梅という、青山小町といわれる器量佳しの娘が居りましてね、伊右衛門の旦那を、今年の花見で、見初《みそ》めた、というわけでさあ」  言いすてておいて、大急ぎで、着物をまとった。  お岩が、黙っているので、喜助は、頭をまわしてみた。  瞬間——喜助は、ごくっと生唾《なまつば》をのみ込んだ。  右の目蓋が、倍にも腫れあがり、左の眸子《ひとみ》が、かっとみひらかれて怨恨《えんこん》と憤怒《ふんぬ》の光を放っていた。乱れた頭髪、脱け上った額、はだけた胸、乱れた膝前——宛然《さながら》、狂った化けものであった。  ——伊右衛門は、ただじゃ、すまねえぜ。  喜助は、首をすくめ乍ら、胸のうちで呟いた。  十三  ——どういうのだ?  田宮伊右衛門は、青山の広い往還《おうかん》のまん中に立ちどまって、眉宇《びう》をひそめた。  突然、目の中へ、無数の雲母《うんも》が、キラキラと煌《きらめ》き乍らとび込んで来て、激しい痛みを感じたのである。  目蓋を閉じると、雲母は赤い小さな球と化して、眼球のまわりをくるくると廻転した。  ——いかん!  伊右衛門は、微かな恐怖をおぼえた。  視力がおとろえたことは、二月ばかり前から、感じていたことであった。なんとなく、からだがけだるくなり、朝目覚めた時、背骨が疼《うず》いて、起き上ることが容易ではなかった。頭脳は、絶えず石塊が詰められているように、重かった。  秋山長兵衛に会うと、 「せっかくの男前が、ひどく窶《やつ》れて居るではないか。お梅を可愛がりすぎて、生命を縮めるな。せっかくお岩の荒淫から遁れても、なにもならんではないか」  と、からかわれたものであった。疲労とともに、欲情も衰え、近頃では、お梅を抱くのも稀になっていた。  お梅が、まともな頭脳を持っていれば、伊右衛門の若さで腎虚《じんきょ》になったことを、怪しむに相違なかった。  ——盲目になるのでは?  伊右衛門は、目蓋を閉ざしていることさえおそろしくなって、かっと瞠《みひら》いた。  とたんに、初夏の陽ざしの眩《まぶ》しさに、くらくらと眩暈《めまい》がした。すべてのものが二重にも三重にも見えて、せわしくゆれ動いた。  そこから、家は、数町と離れていなかったが、伊右衛門は、辛うじて、眩暈に堪《た》えて辿りついた。下婢《かひ》に命じて、牀《とこ》をとらせ、蚊帳《かや》をつると、ずるずると匍《はい》込んで、それなり夕餉《ゆうげ》にも向かわずに、うつらうつらとして、夜を迎えた。 「貴方——」  緋縮緬《ひちりめん》の長襦袢姿に、厚化粧したお梅が、団扇《うちわ》を片手にして、縁側に立った。  宵闇《よいやみ》の中に咲く夕顔のように、あでやかな美しさであったが、伊右衛門には、それを愛《め》でる気力もなかった。 「こちらが、涼しゅうございます。出ておいでなされませ。お月さまも、きれい——」  夕食も摂《と》らずに、寝ていれば、加減がわるいのだくらいは、わかりそうなものであったが、お梅は、一向に心を配りもせず、愉しげに月かげに見とれている。 「ね、はやく、出ておいでなされませ」 「うむ——」  伊右衛門は、物倦《ものう》い返辞をして、寝がえりを打った。  お梅のなまめかしい横坐りの後姿のむこうに、月かげの冴える小庭があった。  小庭は、小路と生垣でへだてられていたが、その生垣に吸いつくようにして、人影が立っているのが、おぼろに見わけられた。  瞬間——伊右衛門は、はじかれたように、とび起きた。 「お岩!」  総身に悪寒《おかん》が来た。  蚊帳の中が暗いのをさいわいに、伊右衛門は、いざって、すかし視た。  生きている者とは思われなかった。墓場から、這いよって来た死骸|宛然《さながら》に、月光をあびた貌は、蒼ぐろく、肉が殺《そ》げ落ち、片目が腫れあがり、額が抜けあがり、髪毛は乱れ、そして、一方の目だけが、もの凄い光を放っていた。 「お岩だ」  伊右衛門は、呻いた。唇も、肩も、指も、わなわなと、顫《ふる》えた。  ——おれを探しに来たのか? それとも、あれは、幽霊か?  伊右衛門は、蚊帳の裾をつかんで、はぐろうとした。とたんに、お梅が、鋭い悲鳴をあげた。  生垣から覗いている貌をみとめたのである。伊右衛門は、縁側へとび出した。 「怕《こわ》い!」  お梅がしがみついた。 「お岩! そこにかくれているのは、お岩か! お岩なら、出て来い!」  伊右衛門は、叫んだ。  伊右衛門には、それが生きている者とは思えなかった。死んで、幽霊になっているとしか考えられなかった。 「何を叫んで居る?」  背後から、舅《しゅうと》の喜兵衛に声をかけられて、伊右衛門は、われにかえると、一時に疲労が出て、その場へへたばり込んだ。  視界が、おぼろになり、遠ざかった。  ——見たのではなかった。気のせいであったのだ。  伊右衛門は、お岩を幽霊にしたおのれを、嘲《あざけ》った。  十四  翌日の午後、伊右衛門は、けだるい身をはこんで、秋山長兵衛をたずねて行った。  長兵衛は、留守であった。隣家に問うと、昨日から戻らぬ、という。  伊右衛門は、どうしても今日のうちに、長兵衛をつかまえなければ、と躍起《やっき》になった。  そして、ようやく、つかまえたのは、日が昏《く》れかかってからであった。赤坂御門の外から、山王宮の麓を東南に繞《めぐ》る溜池の畔《ほとり》に、葭簀《よしず》囲いの掛茶屋が、竝《なら》んでいるが、長兵衛は、その一軒で、とぐろをまいていた。  昨夜は、酔い痴《し》れてどこで野宿したかと思われる泥のついた汚い着物の前をはだけて、宿酔《ふつかよい》の臭い息を吐き乍ら、にごったまなこを据えて、伊右衛門を見ると、 「ようっ——色男」  と、にやっとして舌なめずりをした。 「長兵衛、話がある」 「なんだ?」 「ここでは、なんだから……」 「かまわん。この茶汲みは、先月から、おれの情婦《いろ》だ」  長兵衛は、赤い前掛の娘の肩をひき寄せようとした。 「いけすかないよ! こんな酔っぱらいなど。なんで、あたしが……」  娘は、長兵衛を突きとばしておいて、奥へ逃げ込んでしまった。 「伊右衛門、そろそろお梅にあきたか。喜兵衛を殺して、お梅を売りとばして、また新しい入婿先を見つけてやろうか」 「長兵衛!」  伊右衛門は、長兵衛の肩を掴むと、 「お岩は、どこに居る? |ごんべえ《ヽヽヽヽ》には、居らんだろう?」 「知っているのか」 「青山へ現れたぞ」 「ほんとか? はて——? 昨日、ごんべえに寄ったら、三日前から行方をくらました、と言って居ったが——。誰かに、お主《ぬし》の入婿のことをきいて、逆上したか? 家へ乗り込んで来たか?」 「いや、生垣のむこうから、覗いたような……」 「ような?」 「まるで、幽霊であった」 「そりゃ、おかしいではないか。生きていても、死んでいても、お主を伊藤の家の中に見つければ、乗り込んで来るのが、当り前だろう。気のせいだろう。……いや、待てよ。世をはかなんで、河岸から、身を投げたかな。……やっぱり、お主が見たのは、幽霊だ」 「止してくれ」 「怕《こわ》いか?」 「莫迦《ばか》な! しかし、行方が判らぬでは、済まされぬ。わしは、お主に預けたのだぞ。無責任に、すてておかれては、困る」 「おい、田宮! 勝手なことを、ほざくな。てめえは、ぬくぬくと、小金持ちの与力の家に入り込んで、毎晩、お梅の白い肌を抱き乍ら、棚からぼた餅が落ちて来るのを待っている。おれは、雀の泪《なみだ》ほどの礼金をもらっただけで、相変らず、この貧乏ぶりだぞ。てめえがすてた女房に、いつまでも責任が持てるか。……てめえ、いったい、誰のおかげで——くそ!」  長兵衛は、目も肩もいからせた。 「わかった! ともかく、お岩の行方をさがしてくれ。たのむ」 「さがして、どうする?」 「どうするか、そこまでは、まだ思案がついて居らぬが……、ともかく、気がかりになる」 「十両出せ、伊右衛門」 「え——?」 「おれに、まかせれば——」  長兵衛は、刀で斬る真似をしてみせた。 「わしは、それほどの悪党ではない」 「祟られるのが、怕いか、伊右衛門。……ははは」  長兵衛は、かわいた声で、笑った。 「さがしておいてくれ」  伊右衛門は、二分金をひとつ、長兵衛の膝へ投げておいて、遁れるように、掛茶屋を出た。 「おすみ、酒だ。二分あるぞ、二分」  長兵衛は、奥へ向って、叫んだ。  それから小半刻がすぎて、長兵衛は、その掛茶屋を出ると、小唄を口ずさみ乍ら、四谷見附の方角へ向って、まんさんたる足どりで歩き出した。  長兵衛は、小唄が巧みで、のどもしぶかった。  関所越えても、逢わねばならぬ  たとい、縄目に遭うとても  鬼灯《ほおずき》ほどの血の涙  落ちて松露に、なりゃしょまい  ツツ、チン、チツツン  もとは五本の指なるに  こうは誰《た》がした四本半  見附へ出て、長兵衛は、燗酒の屋台を見つけて、そっちへ、ふらふらと歩み寄ろうとした。  その時、 「長兵衛——」  不意に、背後から、声がかかった。 「だれだ?」  頭《こうべ》をまわした——とたん、長兵衛は、頭から冷水をあびせられたように、棒立ちになって、けものじみた恐怖の呻きを発した。 「長兵衛! う、うらめしい!」  お岩は、両手をさしのべて、泳ぐような恰好で追って来た。  それは、生きているのか、幽霊なのか——長兵衛には、判らなかった。  屋台の灯を受けて、闇に浮き上った姿は、到底この世のものではなかった。片目は腫れあがって完全につぶれ、片目だけがらんらんと凄じい怨《うら》みと憤《いきどお》りをこめた光を放っていた。  着物が闇に溶けて、さしのべた両手だけが、からだからきりはなされて、宙に浮いた恰好になり、それは、悪霊《あくりょう》となった者の冷たい吸引力をそなえているようであった。 「お、お岩——、ま、まて!」  長兵衛は、ずるずると、あと退《ずさ》って、屋台へ背中をぶっつけた。  何気なく首をのぞけた親爺が、お岩をみとめるや、悲鳴をあげて、蹲《しゃが》み込んでしまった。 「長兵衛——、ようも、おのれ……」  お岩は、歯茎《はぐき》を剥《む》いた。染めた歯の黒さと歯茎の白さが、さらに凄味をまし、|ひび《ヽヽ》割れた唇は、生血をすすりそうに思えた。 「ま、まて!……話が、ある」  長兵衛は、片手で顔を掩《おお》うようにして、喋ろうとしたが、口腔内が涸《か》れてしまい、胸の動悸だけが早鐘のように打って、声がかすれてしまった。四肢はこわばった。  ——この手に、触《さわ》られたら、生命を取られる!  長兵衛は、そう感じた。  お岩は、長兵衛が全身に恐怖をあふらせたさまを、あざわらうように、|ひび《ヽヽ》割れた唇を歪めると、 「この、うらみを……」  と、さらに、すっと、一歩迫った。 「うわあっ!」  ついに、恐怖に堪えきれずに、長兵衛は、絶叫して、きちがいのように、両手をふりまわしつつ、のけぞった。  屋台が傾いた。それに重心をあずけていた長兵衛は、しかし、お岩の手に触られまいとすることにばかり夢中になっていたので、ふみとどまるいとまがなかった。  悲鳴をそこにのこして、長兵衛のからだは、屋台もろとも、壕の中へころげ落ちて行った。  十五  伊右衛門は、蚊帳の中で、うつらうつらしていた。  秋山長兵衛に会って、家へ帰って来る途中に、急に、悪寒《おかん》をおぼえ、その夜から、熱を出していた。  三日経った今宵もまだ、全身が浮いたように、けだるく、起き上る気力がなかった。熱のために、眼球《めだま》のまわりを赤い球がくるくるまわる度合が頻繁になり、あまりの苛立たしさに、発作的に発狂しそうだった。  今宵になって、やっと、その赤い球が消えたが、そのかわりに、視力がおとろえてしまったようであった。蚊帳の中に、行燈《あんどん》を入れていたが、そのまわりだけが、ぼうっと赤く浮いているのが見わけられるだけであった。  お梅が、時おり、手拭をしぼって、額をひやしに来ていたが、その顔も、かすんで見えた。  仰臥《ぎょうが》し乍ら、伊右衛門の念頭から、お岩のことがはなれなかった。  大川の百本杭に屍体がひっかかって、黒髪をゆらゆらと藻のようにゆらめかしている光景だとか、幽霊になって河岸道に匍《は》い上ったもの凄い姿だとか、闇道をとぼとぼと、こちらへ向って来る景色だとか……。  脳裡に泛んで来るのは、恐怖をそそる光景ばかりであった。  縁側に跫音《あしおと》がした。  お梅が、手拭を持って来たのである。 「あ——蛍!」  お梅は、甲《かん》高い声をあげると、手拭をそこへすてて、庭へ降りて行ったが、とたんに、ひーっ! と悲鳴をあげた。 「怕いっ!」  ——おのれっ! 来たかっ!  伊右衛門は、反射的に枕元に置いてあった刀をひっ掴むと、蚊帳から、とび出した。  かっと、双眸《そうぼう》を剥いて、庭を睨みつけたが、瞬間、再び、赤い球が急速にまわりはじめた。 「お梅、にげろ!」  と、叫んでおいて、縁側から降りようとしかけたが、足をふみはずして、ぶざまに、顛倒《てんとう》した。  その刹那、ぐっと肩を押えつけられるような気がして——そこを置石で打ったのか、錯覚か、判るいとまもなく—— 「くそっ!」  と、はね起きつつ、抜刀して、びゅーん、とふりまわした。手ごたえがあった。 「げえっ!」  絶叫がほとばしり、伊右衛門のかすむ視界で、白いものが、大きくゆらめき、傾いた。 「お、お梅っ!」  伊右衛門は、斬ったのがお梅と知って、くらくらっと頭の中が旋回《せんかい》して、倒れそうになった。  あわただしく縁側を走って来る跫音がして、 「なんだっ!」  舅の喜兵衛の呶号が、あがった。 「伊右衛門、乱心したかっ!」 「……」  伊右衛門は、頭をまわした。  縁に立った姿が、ほの白く、ぼうっと、闇に浮きあがって、伊右衛門の瞳に、幽霊|宛然《さながら》に映った。 「人殺しめっ!」  その声が、のろいをこめたお岩のもののようにひびいた。 「なにっ!」  伊右衛門は、縁側へ、跳び上りざま、刀をなぐりつけた。 「ああっ!」  喜兵衛は、がくがくっと首を振ると、障子へぶっつかり、障子とともに座敷へ仆《たお》れ込んだ。  伊右衛門は、どさっと縁側へ坐り込むと、|ふいご《ヽヽヽ》のように喘《あえ》いだ。  ——お岩め! 祟り居った!  そのことだけが、脳裡にあった。  お梅を斬り、舅を斬り、なにもかも滅茶滅茶になってしまった絶望感よりも、こうなることが、きまっていたような気がして、なにやら、安堵にも似た虚脱感が来ていた。  ふと——。  伊右衛門は、生垣のむこうに、人の気配があるような気がして、ふらふらふらと立ち上った。 「お岩!」  自分の寝衣《ねまき》の裾《すそ》を踏みつけて、庭へころげ落ちるはずみに、おのれの掴んだ刀で、胸を刺され、 「うっ!」  と、呻きつつも、痛みもおぼえず、よろめき立ち、 「お岩!」  双手をさしのべて、生垣へ向って、歩き出そうとした。 「お岩!」  ばったり、棒倒しに地面に匍《はらば》いつつ、伊右衛門は、遠く、笑い声がひびくのをきいた。  十六  お岩が、何処で果てたか、ついに知る者はなかった。  四谷左門町の田宮の家に、もの凄い形相の狂女が、しょんぼりと坐っているのを、近所の人が見かけた、という噂があったが、真偽のほどは判らない。  田宮の家は、とりはらわれ、元禄の末に、浅野左兵衛組の市川直右衛門が住み、市川の転役したあとへ、山浦甚平という与力が住んだが、家人に病人が頻《しき》りに出るので、菩提所妙行《ぼだいしょみょうぎょう》寺内に、お岩稲荷を勧請《かんじょう》して、怨魂《えんこん》を鎮めた。  芝居になったのは、文政八年七月で、中村座新狂言の二番目に、「東海道四谷怪談」という外題《げだい》で、三代目菊五郎のお岩が、大当りをとった。その時、菊五郎は、公演途中、原因不明の発熱をしたり、目がかすんだりしたので、お岩の祟りではないか、と薄気味わるくなり、妙行寺に、お岩の墓をたてて、「得証院妙念日正大姉」と法号をおくって、追福した。  爾来《じらい》、役者たちは、「四谷怪談」を上演するに際しては、必ず、お岩稲荷に詣でるならわしになった。  ところで——。  作者自身も、目下妙な経験をしている。  本篇を書きはじめて程なく、右眼が腫《は》れて、泪《なみだ》が絶え間なく流れ出はじめ、しばらく、執筆にもゴルフにもさしつかえた。それが、やっと癒ると、こんどは、全身に、湿疹《しっしん》ができて、なんともやりきれなくなった。  殊に、ペンを握る右手に、湿疹がひどくなった。よもや、お岩の祟りなどとは、夢にも思わずにいたが、お岩が喜助から伊右衛門の入婿のことをきいて逆上するくだりにさしかかった時、はっと気がついた。あわてて、四谷左門町へ車を走らせ、お岩稲荷へ詣でた。  ところが、車を運転して、一緒に詣でてくれた青年が、帰宅するや、原因不明の高熱を発して寝込んでしまった。  ちなみに、青年というのは、私の娘の婿である。  三百年を経て、なお、男に祟るとは、げに、執念ぶかい女性ではある。  妲己の於百  一  妲己《だっき》の於百《おひゃく》——凄《すさま》じい名である。  毒婦中の毒婦という観がある。しかし、事実は、そうではなかった。  於百自身は、傑出した才女であり、鴻池善右衛門《こうのいけぜんえもん》をして、 「百年に一人しか生れないだろう」  と、三嘆させたくらいである。  鴻池善右衛門が、出会った時、於百は、経論、天文、聖経《せいきょう》、詩歌《しいか》、管弦、連歌、俳諧——あらゆるものに通じていた。  ただ一度、耳目にしただけで、脳裡におさめてしまうおそるべき女だったのである。  例えば、義太夫節など、二十年から三十年の年季を入れてこそ、人にきかせられるのであったが、於百は、それを習ったともみえぬのに、歌舞伎役者をして座敷に舞わせるほど見事な語りを披露したことであった。  ——いったい、こんな頭脳を生んだのはどんな家だろう?  と、好奇心にかられて、人を遣《つかわ》して、於百の生家を調べさせた。  そして、その調書を一読するや、慄然《りつぜん》として、顔面をこわばらせ、 「これは、妲己だ!」  と、呻いたのである。  で——。  於百のことを記す前に、妲己のことを、述べておく必要がある。  妲己は、史上二大暴君の一人|殷《いん》の紂《ちゅう》王の妃である。  殷の紂王は、「長夜《ちょうや》の飲《いん》」という言葉をつくった人物である。夜が明けても、戸を閉じて燭を張り、灯をもって夜を継ぎ、酒宴をつづけ、百二十日をもって一夜とした、という。  妲己という天下第一の美女をわがものにしてからは、妲己の微笑を招くために、ありとあらゆる残忍きわまる行状を為した。  沙漠に、数十里にわたる宮殿を建てたり、数百艘の竜船《りゅうせん》をうかべる池泉をうがったりするために、苛酷な賦税《ふぜい》を課したので、人民は怨嗟《えんさ》し、諸侯は、叛《そむ》いた。  紂王は、叛いた者を捕えるや、銅柱を作って膏《あぶら》を塗り、これを炭火の上に架《か》け、灼熱したところを、攀《よ》じらしめた。足をふみすべらせて、火中に墜《お》ちるのを名づけて、炮烙《ほうらく》の刑、と称した。また、楼前に、深い穴を掘らせ、その中へ毒蛇|蛇蝎《だかつ》をうごめかせておいて、裸踊りをこばんだ官女を捉えて、なげ込み、百足《むかで》に咬まれてのたうちまわるのを、妲己とともに、見物して、よろこんだ。さらに、孕《はら》み女の腹をえぐったり、才子の脛を折ったりして、妲己に嬌笑させて、満悦であった。  妲己は、しかし、ただ、美しいばかりではなく、才智|秀《すぐ》れて、音曲はもとより、詩作にも天賦を示し、学問にも通じ、天文のことにもくわしく、呂后《りょこう》や、則天武后にまさる鋭い感覚をもって、人をよく看ぬいた、という。  そのあまりの頭脳のよさに、妲己は、もしかすれば、九尾金毛《きゅうびきんもう》の老狐の化身ではないか、と噂されたくらいである。  妲己が、十六歳で、殷宮に送られる途中、とある駅館《えきかん》で、老狐がその寝室に忍び込んで、妲己の精血を吸い尽して、その躯殻《みから》に入れ代ったのだ、と。  顕官《けんかん》の一人が、妲己のあまりの頭脳の秀れていることを疑って、ひそかに、家来に命じて、その素性を丹念に洗わせた。  その挙句《あげく》、意外な事実を、つきとめた。  その顕官は、覚悟をきめて、紂王の前に伺候《しこう》し、人ばらいを願い、 「妲己が、九尾金毛の老狐の化身である、という噂が、巷間《こうかん》にひろまっていることは、すでにおん耳に達しているかと存じます。左様ないかがわしい噂がひろまるのも、|うべ《ヽヽ》なる奇怪な事実が、その生誕にまつわっているのでございます。まことに、いまわしい、と申すもおろかな、人倫の道をふみはずした事実でございます」  と、告げた。 「申してみよ」  紂王は、平然としてきいている。 「むかし夏宮に仕えていた道士で、房中術を善《よ》くする者がございました。白蓮教をもって人を惑わし、特に婦人を拘致して、乱を為すを常といたしました。伝道士が数人これに仕えて、生仏とあがめ、郷党に吹聴したので、遠近の信者が、盲目となって集り、礼拝したものでございます。道士は、一年中、一室にとじこもって、滅多に人に面会せず、自らを神秘な存在にすることに努めて居りました。渠《かれ》が用いる秘薬というのは、五月五日に、蜈蚣《むかで》、蛇、さそり、やもりなどの毒虫を取って、一箇の甕《かめ》の中に入れ、相|食《は》ましめて、最後に生残ったものの血を取り、これに、曼陀羅華《まんだらげ》とか紫梢花とか、さまざまの薬草をしぼって混合し、十年間、暗室に貯えておいたものでありまして、来って信仰する婦人に、嚥《の》ませて、失神させ、これを犯すのでございました。……ところで、河南に一富家があり、前年主人を喪った寡婦の美貌の噂が高いのをきいた件《くだん》の道士は、自ら家を出て、その館へおもむき、おのが信仰に従わせようといたしたのでございます。しかし、寡婦は、貞節をもってきこえて居り、良人亡きのち二十年間は、他人の男子には顔を見せぬ、と誓いをたてて居りましたので、ついに、道士に会おうとしなかったのでございます。  憤《いきどお》った道士は、その館にふるくから仕えている下婢を、大金をもって懐柔し、例の秘薬を、寡婦に、気づかせずに、嚥《の》ませるように、取りはからったのでございました。  まだ三十なかばの、豊満なからだを持つ寡婦が、おそるべき秘薬をくらわされては、何条もってたまりましょう。春情発して、精神も錯乱するかと思われるほど、夜半、寝台でもだえ苦しみはじめました。しかし、良人亡きのち二十年間は、他人の男子に、顔も見せぬ、と誓った以上、その誓いを破るわけにも参らず、いっそ発狂して死のうと覚悟いたしたげにございます。そうしたある夜、十六歳になる一人息子が、母の寝室からもれる呻き声をきいて、心配して、そっと、様子を窺いに、忍び入って参りました。息子は、亡き良人に、生き写しといってよいくらいでありましたので、なかば錯乱状態にあった寡婦は、いきなり、息子にとびつき、寝台の中へひきずり込んだのでございました。……それから、一年後、寡婦は、近くの山中にこもって、一女を生みおとし、これを路傍にすてて、わが家に戻って参りました」  これをきいて、紂王は、愕《おどろ》くかわりに、にたりとして、 「ふむ、その女《むすめ》というのが、妲己であったか」 「まさしく、左様でございます。神も許さぬ母と子が契《ちぎ》って生んだ不倫の女でございますれば、あの肌から発する芳香は、妖《あや》しい悪魔の臭気、白雪のような肌の蔭の幽隠《ゆういん》の箇処は、邪鬼の棲むところ——、すみやかに、おそばより、おしりぞけあそばすように、願い上げます」 「ばかを申すな。この世の中に、母と子が契って生んだ子など、百万、いや千万に一人も居らぬぞ。そのような珍奇の女をどうして、手放せるか。妲己は、母子|相姦《そうかん》むすめだからこそ、希有《けう》の才智を備えて居るのじゃ。はっはっは……、その事実が判って、わしは、いよいよ、妲己が、可愛くなったぞ」  紂王は、逆に、諫《いさ》めた顕官を、さっさと、斬首《ざんしゅ》の刑に処してしまった。  二  鴻池善右衛門が、ひそかに調べたところ、於百もまた、妲己と同じいまわしい不倫の交婚《こうこん》によって生れた娘だったのである。  於百は、木津川畔の漁師の家に生まれていた。  母親は、寡婦となって数年後に、父親知らずの於百を生んだのである。その家には、白痴の息子がいた。  母親は、旅のならず者に犯されて、於百を孕んだ、と知り人たちに弁明つとめたが、信ずる者はいなかった。  というのは——。  その夏の夜、磧《かわら》に、夜釣りに来た者が、にわかに、腹痛に襲われて、その漁師の家で、寝かせてもらおうと、立寄ったところ、意外な光景を、目撃してしまったのである。  寡婦は、白痴の息子を、裸身にのせて、快楽の呻き声をたてていたのであった。  於百が生れた時、白痴の息子は、すでに、秋の洪水で溺れ死んで居り、母親もまた、於百が五歳の春に、疫病で逝《い》ってしまった。  たまたま、難波の廻船問屋桑名屋徳兵衛が、所用があって、京都へおもむく途中、この不幸をきいて、於百を引きとることにしたのであった。  賤《いや》しい漁師の家に、いまわしい不倫の子として生れ乍ら、於百は、五歳にして、すでに、はっと思わせるほど利発な、美しい眉目《びもく》をそなえていた。  桑名屋徳兵衛は、於百を、自分の店で下女として養うのにしのびず、京の祇園《ぎおん》の山村屋という色茶屋へ預けた。  そのままに、育てられれば、於百は、十四歳で、白人《しろと》(太夫・天神の高級女郎に対する下級女郎の別称)として勤めに出なければならなかった。  ところが、あまりの利発さに、女将に、可愛がられて、十六歳まで処女のままで置かれ、これはという旦那衆が見つかるまで、一途に芸ごとにうち込む年月を送ることができた。  やがて、山村屋の女将が目をつけたのは、大阪随一の大商人・鴻池善右衛門であった。  大阪随一、ということは、日本一ということである。  日本ではじめて清酒を発明した初代新六から四代目にあたる鴻池善右衛門は、醸造に、海陸運輸に、両替に、他の競争対手をはるかにひきはなした大規模な営みを、ますますひろげて居り、その蓄財は、庶民の目には、夏の夜空の星よりも多かったのである。  当然、善右衛門が、金とともにたくわえている江戸・京都・大阪の女は、十指を下らず、いずれも、水ぎわ立った美人である、という。  十人も、絶世の美女を擁《よう》していれば、もうこれ以上必要ない、と手を振るだろうと思うのは、そこいらの並の分限者《ぶげんしゃ》に対してのケチな想像というものであろう。  山村屋の女将から、たのまれると、善右衛門は、於百を一瞥《いちべつ》しただけで、 「よいよい。引き受けよう」  と、あっさり頷《うなず》いてみせた。  水揚げ代百両。これまでの養育代として、山村屋へ三千両。大阪へつれて帰るにあたって、祝儀として、祇園町へばらまかれたのが二千両であった。  その水揚げの初夜に於て、善右衛門は、早速に、愕かされた。  未だ熟《じゅく》しきらぬ、細く稚《おさな》く瑞々《みずみず》しい四肢を、二十貫のおのが巨躯が、つぶしてしまうのではないか、と心配し乍ら、善右衛門は、時間をかけて、優しく、於百をして、その苦痛に堪えさせようとした。  於百は、たしかに、その一瞬のいたみに、思わず、小さな悲鳴を発したが、それがすぎて、ものの数分も経たぬうちに、ふっと、われ知らずの別の音色をもらした。  同時に、善右衛門の皮膚に、於百の肌の微妙な変化が、反応した。 「どうした?」  思わず、そう訊ねないではいられなかった。 「……虫が——」  於百は、きこえるかきこえないくらい小さな声で、言った。 「虫が?」 「はい……、虫が、数千も——数万も、わたしのからだを、くすぐります」  ——おお!  瞬間、善右衛門の|それ《ヽヽ》は、捕縄《ほじょう》にかかったように、強くひきしぼられたことだった。  三 「明日は、六つ前に帰らねば、大阪に、午《ひる》に用事がある」  と、独語をもらし乍ら、善右衛門は、ねむりに落ちた。  ふっと、闇の中で、目覚めた善右衛門は、ねむりすごしたように思って、寝がえりを打つと、 「なん刻《どき》かな?」  と、呟いた。ひくく呟いたつもりであったが、ねむっているものとばかり思っていた傍の於百が、つと身を起した。 「見て参じます」 「いや、よいよい、寺の鐘は、まだであろう。番太《ばんた》の拍子木の音も、きいて居らぬ。……待って居ろう」  於百は、その言葉をきくと、小さな笑い声をたてた。 「お寺のお住職も、夜番の衆も、天のきざしを見て、鐘を撞いたり、拍子木を鳴らしまする。わたしも、天のきざしを見るだけでございます」  そう言いすてておいて、立って行くと、窓をあけて、空を仰いだ。  それから、すぐに、褥《しとね》へもどって来ると、 「まだ七つ前(三時)でございます。あと一刻、ゆっくりおやすみなされませ。わたしが、起して進ぜます」  と、告げた。 「どうして、空を見ただけで、七つ前と、判るのだな?」  善右衛門は、訊ねた。 「天狗星《てんぐぼし》が西に没して、北辰《ほくしん》がまだそこにかかって居ります。それに、小さな星がまだ散っては居りませぬ」 「これは、あきれた。そなたのような小娘が、いつの間に、天文を学んで居ったのかのう」  善右衛門は、舌をまいた。  鴻池善右衛門は、多忙であった。  日本全土に、十七の支店を持ち、千八百人の使用人、二十余艘の廻船を動かしていたのである。西国大名の参覲交替《さんきんこうたい》の道中を、一手にとりしきっていたし、大名の唯一の財源《ざいげん》である貢租米を、蔵物《くらもの》として大阪へ廻送し、これを売って、金銀に替えたり——、また、勝手元|不如意《ふにょい》の大名に金を貸したり——、鴻池がいなければ、中国・西国の大名たちは、くらしもたたぬあんばいであった。  したがって、善右衛門の行動は、めまぐるしいものとなっていた。三月《みつき》に一度は、江戸と往復していたし、越前をまわって来たと思えば、すぐに長崎まで、おもむいたりしていた。昨日、京都の両替店にいたかとみれば、今日は、兵庫で、新造の船を眺めている、というあわただしさであった。  せっかく、大阪新町の粋をこらした家に、於百をかこい乍ら、月に一晩も腰をおちつけるわけにいかなかった。  それでも、善右衛門は、他の妾宅は、もう三月も四月も見すてておいて、寸暇があれば、於百の許へ、姿を現すようにしていた。  その初夜に於て、男を容《い》れて、数分も経たぬうちに、全身を幾万の虫がくすぐるような官能をめざめさせた於百は、善右衛門と夜を重ねる毎《ごと》に、まるで、急勾配の石段でも下るような早さで、女体のよろこびを、昂《たか》めたのである。  色道に狎《な》れた善右衛門としても、これは、一夜毎が、驚きであった。かよわざるを得なかった。  さらにまた、善右衛門が知らぬうちに、於百が、身につける芸ごと、学問の多岐《たき》にわたっていることは、おそろしいほどであった。善右衛門が、その於百を抱いても、わが身のままならぬなげきをもらすようになったのは、三年過ぎた頃であった。 「そなたには、すまぬが、どうやら、わしも、行いすまさねばならぬ年齢を迎えた」  ある夜、善右衛門は、一刻近い於百の奉仕にも拘らず、ついに、自ら匙《さじ》を投げてしまって、沁々《しみじみ》と言った。 「わしが、こうなっては、そなたも、辛かろう。……女のからだは、男を知らねばそのまま生涯すごせるが、知ってしまうと、どうにもしまつのわるいものゆえ、そなたには、別の男を呉れてやらねばならぬの」  於百は、とんでもない、とかぶりを振って、善右衛門の胸にすがって、すすり泣いた。 「よいよい。わしが許す密通《みそか》事じゃ。天下御免というものではないか」  善右衛門は、笑った。  於百の妾宅を、津打門三郎という、色白な、眸子《ひとみ》に焦点のない、どこやら痴呆《ちほう》の匂いのある三十前後の歌舞伎役者がおとずれたのは、それから、半月ばかり経ってからであった。  門三郎は、於百の前に、三つ指をつくと、 「鴻池の旦那様のご命令により、貴女《あなた》様と人目の関《せき》を忍ばせて頂きまする」  と、告げた。於百のために弁護すれば、於百は、それまでに、ついぞ一度も、善右衛門以外の男に抱かれる妄想を描いてはいなかった。於百は、妙にねちねちとした口調で、そう言われたとたん、この下っ端歌舞伎役者に対して、嫌悪感さえおぼえた。 「旦那様が、どのようなことを申されたか知らぬけど、わたしは、そなたなどと、睦《むつ》び合う存念は、毛頭ありません。去《い》んで下され」  於百は、にべもなく、しりぞけた。  門三郎は、しかし、善右衛門から命じられた以上は、是が非でも、不義を勤めなければならぬ、と言いはって、動こうとはしなかった。  於百は、かなりの包み金で、ひきとらせようとしたが、門三郎は、すでに多額の報酬を受けているとみえて、そんな金には目をくれなかった。  押問答の挙句、門三郎は、ようやく、折れて、 「では、せめて、今宵だけ、別の小部屋に泊めて下さりませぬか。……歌舞伎役者のはしくれであるてまえといたしましては、宵のうちに追いはらわれたと、世間にきこえては、せっかく持っているひとにぎりの人気さえも、うしなってしまいまする。なにとぞ、ここのところを料簡《りょうけん》なされて下さいませ」  と、たのみ込んだ。やむなく、於百も、譲歩して、一泊させることにした。  門三郎が、於百の寝室へ忍び入って来たのは、子《ね》の刻(午前零時)であった。  於百は、ほんのわずかな抵抗を示しただけで、門三郎を受け容れた。なま白いやさ男に似合わず、門三郎は、意外な腕力をそなえていたし、有無を言わせぬ敏捷《びんしょう》な手さばきも心得ていた。いや、それよりも、於百は、すでに、ひとつ家に、男を泊めたことに、押さえがたい興奮をおぼえていたのである。  善右衛門が、門三郎をえらんだわけは、弄《なぶ》られるうちに、於百には、合点がいった。門三郎は、途方もなく強い精力の所有者だったのである。  明け六つの鐘の音をきき乍ら、於百は、なお、門三郎の手から離してもらえず、さいなみぬかれて、くたくたになっていた。  於百の白い肢体は、その一夜で、一挙に、花ひらいてしまった。  善右衛門が、不意に、訪れたのは、それから十日後の夜であった。その夜も、宵のうちから、於百と門三郎は、褥《しとね》の中に在った。  善右衛門は、双方の荒い息づかいが、いったん、おさまったところを見はからって、ずいと、寝室へふみ込んで来ると、 「あ——いや、そのまま、そのまま」  と、抑えておいて、枕元へ坐ると、一服吸いつけた。  於百は、しかたなく、門三郎の胸に、顔をうずめて、息をひそめて、四肢を縮《ちぢ》めていた。 「旦那様——。これは、於百様にとって拷問と申すものでございます。あちらで、お待ち頂けますまいか」  門三郎は、乞うたが、善右衛門は、かぶりを振った。 「なろうことなら、わしに、濡れ場のさかりを見せてもらいたいところだが、それは、ひとまず遠慮するとして、わしの思案をきいてもらおうかの」  善右衛門の思案というのは、門三郎と於百に、この場で、夫婦の盃事をしてもらいたい、ということであった。 「お前さんには、過ぎた女房と思うが、どうだろうね」  日本一の大尽に、そう言われては、門三郎も、かぶりを振る理由はひとつもなかった。歌舞伎役者として、鴻池を後盾《うしろだて》にすれば、こんな強味はなかった。  四  記録によれば、門三郎の女房になって、江戸へともなわれた於百は、一年経たぬうちに、門三郎の実兄松本幸四郎をくどいたことになっている。事実は、幸四郎が、於百の芸を取ろうと、しばしば、二人きりで会うたのを、周囲が誤解したのである。  当時——。  江戸の誇りは、芝居町であった。そして、その芝居町を背負って立っているのが、市川団十郎であった。五代を継いだ白猿団十郎は、名人の名をほしいままにし、実事《じつごと》に立って敵役に通じ、所作事に達し、さらに荒事は家の芸として、他人の追随をゆるさず、   江戸見ては外に名所もなかりけり    団十郎とはなの三月  と、謳歌《おうか》されていた。  この団十郎の蔭にかくれるようにし、四世松本幸四郎は、老巧と至芸をもって、粋客通人達に絶大なひいきを持っていた。しかし、一般の人気は、大半が団十郎にあり、その残りの人気もまた、幸四郎を通りすぎて、初代尾上菊五郎に移っていた。菊五郎は上方役者で、坂田藤十郎の傾城《けいせい》狂言の流れを汲み、情緒の纏綿《てんめん》を写す繊細で微妙な技巧を身につけていたので、団十郎の芸と対蹠《たいせき》をなしたのである。  あいだにはさまれた幸四郎は、おのが独特の芸をみがきあげるべく、腐心《ふしん》していたのである。たまたま、弟の門三郎がつれ帰った於百が、あらゆる芸事に長じているのをきいて、これを一通り披露してもらって、驚嘆し、ひそかに、於百対手に、新しい芸風をつくろうと、決意したのであった。幸四郎との噂が立つや、於百は、松本一家に迷惑をかけた詫びに、門三郎から離別をもらって新吉原揚屋海老屋の仲居がしらになった。  その器量と発明は、色里でさらにいちだんとかがやいたので、揚屋尾張屋清十郎が、特に乞うて、後妻にした。清十郎は、女房が、浄瑠璃《じょうるり》太夫と不義、駆落ちしたのち、久しく寡夫を通していたのである。  秋田藩兵具頭・那珂《なか》忠左衛門が、吉原へ通って来ているうちに、清十郎女房於百に出会ったのは、それから一年ばかり過ぎてからであった。遊興の揚屋を、他店から尾張屋に移した那珂忠左衛門は、於百を知るや、たちまち、|とりこ《ヽヽヽ》になってしまった。  那珂忠左衛門は、四十過ぎていたが、未だ独身《ひとりみ》であった。若い頃、主君の命令で、妻帯したが、三月で新妻を喪うと、爾来、いくら周囲からすすめられても、言を左右にして、娶《めと》ろうとはしなかった。そして、独身の気楽さで、粋人通客と交って、色道の達人になり了せていたのである。  忠左衛門は、於百を知ってから十日目に、あるじの清十郎を座敷に呼び、 「たのみがある」  と、きり出した。真剣な面持で、 「おぬしのかみさんを、わしの家内に申し受けたい」 「ご冗談を仰せられます」  清十郎は、あきれるよりも、からかわれていると思って、とり合わなかった。 「冗談を申しているのではない。本気だ。わしは、おぬしのかみさんに惚れた。那珂忠左衛門、生まれてはじめて、女に惚れた。……たのむ、ゆずってくれ」  忠左衛門は、頭を下げた。  清十郎は、当惑して、 「ゆずってくれ、と申されても、朝顔の種《たね》や骨董の品ではございませぬ。おいそれと、右から左へおゆずりするわけにも参りませぬ」 「そこを曲げてたのむ。……おぬしがゆずってくれぬと、わしは、いずれ、於百さんを口説くことに相成る。おぬしは、一度、女房に裏切られた男だ。二度と、裏切られたくはあるまい。な、たのむ」  忠左衛門は、ふしぎな人柄で、どんな横車を押しても、人から憎まれなかった。放埒《ほうらつ》な振舞いをみせても、それが、かえって、愛嬌《あいきょう》のあるものになり、対手を笑わせてしまう、まことにトクな人物であった。  清十郎は、ちよっと、考えていたが、 「那珂様、まことに、本気でございますね?」  と、念を押した。忠左衛門は、脇差の鯉口《こいぐち》を切ると、金打《きんちょう》してみせた。 「よろしゅうございます。三日間だけのご猶予を下さいまし」  清十郎は、言った。  実は、清十郎は、心臓に持病があった。すでに、年齢も五十路《いそじ》を越えていた。於百を女房にして、清十郎が困惑したのは、閨《ねや》に於ける凄まじい欲求ぶりであった。  この一年で、清十郎は、めっきり体力が衰えていた。三日に一度は、眩暈《めまい》におそわれるようになり、働き者が、見栄も外聞もなく、午すぎまで牀《とこ》に就いていることが、珍しくなくなっていたのである。  那珂忠左衛門から、意外な申し出をされて、清十郎は、ふっと、於百を手放せば、十年ばかり、寿命がのびるのではなかろうか、と思ったのである。  次の日の夜、清十郎は、於百を前に坐らせると、 「お前に、途方もない相談をしたいが、きいてもらえるか?」  と、言い出した。才智秀れた女房に、遠まわしないいかたで、納得させる必要はなかった。  清十郎は、於百の意志にまかせることにしたのである。  於百は、良人をまっすぐに視《み》かえして、 「那珂様のお申し出のことでございますか」  と、言った。すでに、知っていたのである。 「知っていたのなら、都合がいい。お前に、諾否《だくひ》をきめてもらいたい」  於百は、うなずいて、 「こういうことは、天におまかせした方がよろしいのではございますまいか」 「天に、とは?」 「銅銭でも抛って、おきめなさいまし。表が出れば、那珂様へ参りましょう。裏が出たら、おことわりすればよろしいではございませんか」 「成程——」  清十郎も、江戸っ児であった。  財布の中から銅銭をとり出すと、ポンと、天井めがけて、投げ上げた。  畳に落ちたのを、見ると、表が出ていた。  五  妲己の於百が、稀代の毒婦として、後世に伝えられたのは、奸臣那珂忠左衛門の命令を受けて、その妻の身であり乍ら、藩主佐竹義明を誘惑して、通じた罪状によってである。  事実無根である。那珂忠左衛門は、奸臣でもなければ、佞人《ねいじん》でもなかった。  気象が率直で、行動力があり、そのために、家中の反感を買いはしたが、私欲に溺れるような小人ではなかった。  そもそも、藩主義明自身が、秋田藩家中の半数から、背を向けられていたのである。臨時養子だったからである。  佐竹家は、藩主継承で、ごたごたした家であった。四代|義格《よしただ》に子がなく、分家佐竹壱岐守家から、義峰を迎えて、五代藩主としたが、その義峰にも子がなかった。そこで、ふたたび、壱岐守家から養子を迎えるのが、順当であろう、と大方は考えていた。壱岐守家には、義峰が出たあと、東家という分家から、義道という人物が入って当主となり、一子義明をもうけていた。そして、義道は、義明が、宗家に養子に迎えられるであろう、と期待していた。  しかるに、義峰は、養子を、壱岐守家からは迎えずに、式部少輔家佐竹義都の子義堅を、養子に迎えた。ところが、義堅は、早逝《そうせい》してしまった。壱岐守家では、こんどこそ、義明が迎えられるであろう、と期待した。  しかし、こんどもまた、義峰は、義堅の子を——わずか十二歳の少年を、養子に迎えた。六代|義真《よしちか》である。  すると、義真は、二十歳の若さで久保田城中で、急死してしまった。家中では、 「壱岐守家で、毒殺したのだ」  と取沙汰《とりざた》した。  不穏《ふおん》の噂がひろがったものの、義峰は、もはや、壱岐守家の義明よりほかに、養子にする者はいなかった。やむなく、義明を臨時養子としたのである。家中の面々が、義明に心服するわけがなかった。  さらに、わるいことは、義明が、藩主の座に就いた時、奥羽一円が、旱魃《かんばつ》に襲われ、財政は極度に窮迫したのである。領民は、いまわしい藩主のせいのように、恨んだ。  江戸屋敷の筆頭となっていた那珂忠左衛門は、藩庫《はんこ》が全く空になったことを苦慮して、大阪商人から借金するために八方手をつくしていた。その苦慮のさまを見かねて、於百は、自身で大阪へおもむき、鴻池から二万両借りて来たが、焼け石に水であった。  於百は、つい、 「銀札を出して、しのがれてはいかがでございましょう」  と、良人にすすめた。 「打開の策は、それしかないの」  忠左衛門も、ほぞをきめた。  佐竹藩が、幕府の許可を得て、銀札を発行したのは、宝暦四年である。  銀札発行とともに、正金銀の通用は停止された。しかし、庶民は、その交換をきらって、正金銀を隠匿した。忠左衛門は、江戸から国許へ帰るや、即日、城下の町人百二十七軒を急襲して、正銀を銀札と強制交換させた。怨恨は、忠左衛門一身に集中した。  不運は、その翌年——宝暦五年、いわゆる亥《い》の年大飢饉に襲われたことであった。  五月二十日頃から晴天がなく、八月十五日の彼岸になっても、実が入らず、青立で、「けかち」の様相を呈してしまったのである。  六年に入って、施行所を設けたが、食を乞う者、一日に千二百人にのぼった。飢民救済のために、大阪及び近国から、銀で現米を買ったため、銀札によって浮かせた基金も底をついてしまった。  銀札の使用は、領内限りで、他国商人が出国する場合には、銀と交換することになっていたが、それさえも実行困難になってしまった。  この窮乏のどん底にあって、那珂忠左衛門は、憎悪と怨嗟《えんさ》を一身に負うたのである。  明後日には、江戸より帰国の途にあった藩主義明が、刈和野に着く、という夜——深更。忠左衛門は、帰宅すると、於百に、裃《かみしも》を渡し乍ら、 「思案が、尽きたぞ、於百——」  と、投げ出すように、言った。 「お殿様をお救いするには、貴方様が、罪人におなりになるよりほかに、てだてはございますまい」  於百は、前から、考えていたことを、口にした。瞬間—— 「そうか!」  忠左衛門は、叫んだ。 「そうであったな。それに、気がつかなんだぞ。……よし、きまった!」  忠左衛門は、すぐに、居室に入るや、銀札発行の責任者及びその支持者を、死罪・切腹・改易《かいえき》・追放・閉門《へいもん》に処す一覧表をつくりあげはじめた。  まず、はじめに、「国家の大難を招いた」罪状をしたため、それにつづけて、  死罪——那珂忠左衛門  と、記した。  その時、於百は、別室で、しずかに、懐剣を抜いて、おのがのどへ切先を向けていたのである。  高橋お伝  一  明治十年九月十日——。  その朝、東京裁判所へ出て来た糾問《きゅうもん》係の判事加藤進は、珍しく、憂鬱《ゆううつ》な様子をしていた。  同僚の判事補が、 「どうかしたのか?」  と、訊《たず》ねたが、加藤進は、「なんでもない」と、ぶっきらぼうに、かぶりを振った。  加藤進は、旗本|布衣《ほい》の次男坊で、剣客タイプの人物であった。事実、剣術にはしたたかな腕前を持っていた。  加藤進が、このように暗い表情をしているのを、同僚たちは、見たことがなかった。  加藤進は、自分の椅子に就くと、しばらく目蓋《まぶた》を閉じて、給仕がお茶を運んで来ても、身じろぎもしなかった。  ものの二十分も、そうやっていてから、ようやく、加藤進は、仕事にとりかかった。  机の上には、うずたかく取調べ書類が、積まれてあった。  去年八月二十七日、浅草蔵前の旅人宿で、檜物町《ひものちょう》の古着商後藤吉蔵を殺害した高橋お伝に関する取調べ書類であった。  加藤進に、この書類がまわって来たのは、十日ばかり前であった。しかし、高橋お伝の犯行は疑問の余地のない明白なものであったので、加藤進は、ほかの事件の方へ手をつけ、のびのびにしていたのである。  その事件が、昨日で、片がついたので、高橋お伝の口供書をとることにしたのであるが、加藤進にとって、これは、ひどく気が重かった。  実は、昨夜、妻が出奔《しゅっぽん》してしまったのである。  結婚して十年になっていたが、琴瑟調《きんしつととの》ったことは、一度もなかった。殊に、この二三年は、必要なこと以外は、口もきかぬ不仲になっていた。妻は、きりぎりすのように痩せたひょろ長い女であった。加藤進は、どちらかといえば、小柄で、ふっくらとした女が好きであった。幼い頃からの許婚者《いいなずけ》であったし、狷介《けんかい》不屈な父親の厳命に抗し難く、夫婦になったものの、その初夜から、若い女体を抱く愉《たの》しみなどなかったのである。  夫婦の交りが断たれてから、もう幾年になっていたろう。  妻が出奔したのは、むしろ、加藤進にとって、好都合といえるのだが、気がかりなことがひとつあった。身寄りのない遠縁の、十八歳の若者を、しばらく前から居候させていたが、その若者の姿も、消えていたのである。  このことが、世間に知れたならば、判事補という職業上、甚《はなは》だ当惑することになる。まして、心中などされたならば、加藤進自身の生命《いのち》取りになる。  おそらく、妻は、若者の単純な正義感をそそって、同情を呼び、同情から恋慕をひき出して、一緒に連れて行ったに相違ないのである。  そうさせてしまった責任がこちらにあるのは認めるとしても、これは、憤怒《ふんぬ》せざるを得なかった。他人には語れぬことであったし、加藤進は、当分不快な気分で日々を過さねばならない。  その矢先に、世間で淫婦《いんぷ》とさわがれた女から口供書を取るのは、やりきれないことだった。  加藤進は、しぶしぶ、書類に目を通すことにした。  まず、高橋お伝を捕えた警視第一方面第一分署の園田権中警部の取調べたその素性から読みはじめた。  二  高橋お伝は、群馬県上野国利根郡下牧村、平民九右衛門の養女で、二十六歳であった。  お伝は、その出生からして、不幸な女であった。  高橋九右衛門は、お伝を、実弟勘左衛門から貰《もら》ったことになっている。しかし、お伝は、勘左衛門の実子ではなかった。実母お春が、勘左衛門のところへ嫁入りした時には、すでに、お伝を腹にみごもっていたのである。  お春は、その土地の領主である沼田城主|土岐《とき》氏(三万五千石)の家老広瀬半右衛門の屋敷に女中奉公に上っている時、半右衛門に手ごめにされて、妊娠すると、ほんのわずかな金子《きんす》を添えて追い出されたのであった。  お春は、器量佳《きりょうよ》しであったので、あまり頭脳のよくない高橋勘左衛門が、妊娠しているのを承知で、嫁にしたのである。  しかし、お春は、勘左衛門の低脳ぶりに愛想をつかして、二歳のお伝を、その家にのこして、さっさと家出してしまった。  勘左衛門には、お伝を養育する能力はなかったので、兄の九右衛門が、養女に引き取ったのであった。九右衛門の女房は、越後生れの女郎あがりで、不産女《うまずめ》であった。  お伝は、実母の血を継いで勝気な性格であったが、同時に、色白で面高《おもだか》な、瓜実《うりざね》顔の、綺麗な器量をしていた。  十四歳になった春、同じ村の宮下治郎兵衛の次男要次郎を、婿養子《むこようし》に迎えた。  しかし、わずか三箇月で、要次郎は、某夜遁走してしまった。些細《ささい》なことで、逆上したお伝から、囲炉裏《いろり》の長火箸で、滅多打ちにされた要次郎は、美人を女房にした悦びなど、いっぺんにふっとんでしまい、そのまま、逃げ出してしまったのである。  それから一月後、お伝もまた、養父に無断で家出してしまっている。  お伝が、現れたのは、中仙道の板鼻宿《いたはなじゅく》であった。板鼻宿は、高崎と安中《あんなか》のほぼ中間にある、飯盛女郎《めしもりじょろう》屋の多い宿場であった。  関東の宿場の飯盛女郎は、殆どが越後生れであった。板鼻宿の女郎たちも、例外ではなかった。お伝の養母も、この板鼻宿の越後女郎だった。  お伝は、養母から、板鼻宿のくらしをきいていたので、なんとなく、そこへ現れたのかも知れなかった。  お伝は、しかし、女郎になったわけではなかった。飯盛女郎屋あいての仕出し屋に、女中奉公したのである。しかし、その器量が、黙って看過される筈がなかった。  横浜の生糸商人小沢伊平に目をつけられ、泊っている旅籠《はたご》へひき込まれた。  小沢伊平は、外国商館へ、絹糸を売り込む、俗に浜師と称《よ》ばれる、羽振りのいい商人であった。風采も相当なものであったし、舌先三寸で外国商人と取引する才覚の持主であってみれば、十四五の小娘を口説いて、わがものにするのは、造作のないわざであった。  小沢伊平は、板鼻宿に逗留して、上州糸を買いあつめる間——二十日あまり、その旅籠の一室に、お伝を、夜のなぐさみ対手に泊らせておいた。  お伝は、養家に舞い戻った時、小沢伊平からもらった三十円を懐中にしていた。  その年の暮、同じ村の高橋代助の次男波之助を、婿養子に迎えた。  波之助は、男前であったし、女をおだてる小利巧な智慧《ちえ》も備えていたので、お伝との夫婦仲は、よかった。  不運は、二年後に来た。波之助の左手の甲に、癩《らい》の徴候《ちょうこう》が現れたのである。この世で最も嫌悪される業病《ごうびょう》にとりつかれた以上、村に住んでいるわけにいかなかった。  波之助は、お伝をつれて、故郷をすてると、邑楽《おうら》郡藤川村の高正寺という寺の住職|三島大洲《みしまだいしゅう》をたよって行った。明治四年十二月三十一日のことであった。  三  波之助夫婦が、高正寺に世話になっていた期間は、三箇月あまりであった。夫婦は、東京へ出た。  馬喰町《ばくろうちょう》二丁目の旅籠武蔵屋に泊って、波之助は日傭《ひよう》取りに出、お伝は料亭へ雇い奉公に出た。波之助の日傭取りは、長くはつづかなかった。癩病《らいびょう》が発覚したからである。お伝の方は、月に二度、武蔵屋に帰って来た。その頃から、夫婦の間には、険悪《けんあく》な空気が流れはじめた。  お伝が、ただの仲居奉公をしているのではない、と波之助が、かぎつけたからである。  一夜、戻って来たお伝に向って、波之助が、とびかかり、凄《すさま》じい喧嘩を演じた挙句、夫婦は、武蔵屋から追い出された。  新橋駅の待合所で、ならんで腰を下した時、両手で顔を掩《おお》うて、うなだれていた波之助が、 「おれが、わるかった。かんべんしてくれ、……こん後、金輪際《こんりんざい》、やきもちは焼かねえ。……お前にすてられたら、おれは、その日から乞食だ。すてねえでくれ。お前が、なにをしようと、おれは、もう一言も言わねえ」  と、詫びた。  お伝は、沈黙をまもっていたが、やがて、 「あたしに、ついて来るなら、今日から、お前さんは、あたしの兄になるのだよ」  と、言った。 「兄にでも、弟にでもなる」 「ほんとだね?」 「おれをすてない、と約束してくれるなら……」 「すてないよ」  お伝が、波之助をつれて行ったのは、横浜であった。  お伝は、波之助を旅籠にのこして、小沢伊平をたずねて行った。  小沢伊平は、上野国富岡上町に、本店を構えていたが、横浜の支店でくらしている方が多かった。本店には、伊平の妻の先夫の子|いち《ヽヽ》がいたが、いつの間にか、伊平の|もの《ヽヽ》になって、女手で店をとりしきっていた。  伊平は、お伝がいつの間にか女盛りになっているのを見て、即座に食指をうごかした。  伊平は、世間の噂をはばかって、東京の神田仲町二丁目に買ってある小さなしもたやにお伝をすまわせ、横浜と富岡を往復する時に、二日ばかり泊ってゆくことにした。  お伝は、伊平に、波之助を兄だと紹介して、永らく肺病でなやんでいるといつわり、そのしもたやの一部屋に置くことを許可してもらった。  伊平が泊るのは二階であった。波之助は、階下の部屋から、天井を睨《にら》み上げて、伊平とお伝が抱き合っている光景を想像し乍ら、燃え立つ修羅《しゅら》の炎に身を焼いた。  修羅の炎に身を焼かれたために、死期をはやめたのであったのであろうか。波之助の生命は、意外に早く、この世から去った。  明治五年九月十七日——故郷を出奔してから、一年も経たずして、波之助は、夜明けがた、かたわらに睡《ねむ》っているお伝にも気づかれずに、そっと息をひきとった。  お伝が、その家から追われたのは、波之助の葬式を済ませた翌日であった。たまたま、横浜から出て来た伊平が、その病死によって、波之助がお伝の良人であり、癩者であったことを知ったからである。  しかし、追われたお伝には、頼るべき|あて《ヽヽ》があった。  麹町十二丁目に、小川市太郎という男が住んでいた。砂糖売買のブローカーであった。伊平と懇意《こんい》な男で、伊平のものと知りつつ、お伝を口説いたことがあったのである。  小川市太郎は、四十過ぎてまだ独身者であった。養母と二人ぐらしであった。実は、養母と夫婦同然の関係にあったのである。  市太郎は、十六歳の時に、小川家へ養子に来たが、その次の年には、もう、養母と、ただならぬ仲になっていた。養父は、中風《ちゅうぶう》で永年倒れたままであった。その時、養母は、すでに四十に手がとどいていた、という。  市太郎は、お伝にたよって来られると、しばらく、真剣な面持で、腕を組んで考えていたが、 「あと三日、どこかの旅籠で待っていてくれ」  と、言った。  三日経って、お伝が訪れると、家の中から、養母の姿は消えていた。  市太郎は、養母を、故郷の久留米へ帰した、と告げた。しかし、お伝は、信用しなかった。  その夜、お伝は、市太郎に抱かれたとたん、烈しい悪寒《おかん》をおぼえた。 「なんだか、この家は、薄気味がわるい。明日にでも、引っ越しましょうよ」  お伝が、たのむと、市太郎も、こわばった表情で、 「おれも、それを考えていた」  と、こたえた。お伝は、床下に、養母の死骸《しがい》が埋めてあるのだ、と想像したが、口に出して、訊ねるのは、おそろしかった。  二日後、市太郎とお伝は、十二丁目から八丁目へ移った。  四  市太郎が、養母の祟《たた》りとしか考えられぬ奇病にとりつかれたのは、八丁目に移って、一月も経たぬうちであった。  一夜のうちに、全身が、白い粉を噴いたようになり、無数の水泡《すいほう》が生じ、それが、耐え難い痒《かゆ》みをともなったのである。  水泡をつぶすと、痒みは、痛みに変った。房事にも起き伏しにも、別段さしつかえはなかったが、ブローカーとしての仕事はお手あげになった。  転々として浮浪する生活がはじまった。  市太郎は、働かずに、のらくらと、借金だけでその日その日をすごし、お伝にもまた、どこへ奉公することも許さなかった。  二人の浮浪生活を示す資料が、取調べ調書の中にあった。  四谷尾張町に住む岩崎かねという後家の供述書である。  平民・滝之助|後家《ごけ》 岩崎かね(二十九)  自分儀、大伝馬町二丁目二十六番地、滝之助とともに商業|罷《まか》りあり候節、明治六年頃、尾州生れの由にて、小川市太郎なる者、訊ね参りしは、亡父庄三郎儀も、尾州生れにて、右|縁合《えんあい》により市太郎と知る人に相成り、おいおい市太郎へは貸金も出来候うち、六年八月十一日、滝之助は病死致し候。のち絶えて市太郎も参り申さず。然るところ、九年三月か四月頃、同人|罷《まか》りこし候。のち五月頃と存じ、同人並びに高橋でんなる者を同道にて立寄り、その後、市太郎へ少々貸金いたし、同年六月十四日、該金を厳重に催促の上、金二円を請取り候。のちに、市太郎並びに高橋でん儀も、自分宅へ更に参り申さず。尤も、六月頃、日は失念、夜分、でん一人にて、一泊させてくれ、と参り、止宿|仕《つかまつ》り候が、同人儀いずれに居住せしにや、懇意の者には決してこれなく、聞かずじまいに候。  だいたい、こういうあんばいの浮浪生活であった。  やがて、夫婦ともども、見えすいた詐欺《さぎ》を働くようになった。  新富町に、宍倉《ししくら》佐太郎という小悪な周施屋がいた。  某日、市太郎が、ふらりと、宍倉を訪れた。二人は、蛎殻町《かきがらちょう》の米市場で知り合った間柄であった。  市太郎は、茶の見本を、宍倉に見せ、この茶代金は七百五十円で、手金を二百五十円渡してあるが、残金五百円がつくれそうもない。買主か、あるいは、残金の金主をさがしてもらえないか、とたのんだ。  宍倉は、欲心を起して、それを自分が肩代りすることにした。念のため、その茶の所有主の熊谷在の大麻生村、鈴木浜次郎を訪ねて行ってみた。すると、見本と原品は、全く質がちがい、原品はひどい粗悪《そあく》であった。七百五十円はおろか、五百円でも買えないしろものであった。  宍倉は、すでに、百円を、市太郎に渡していたので、火のように憤った。  宍倉は、足を棒にして、東京中をさがしまわった挙句《あげく》、市太郎とお伝をさがし出し、わが家へつれて来ると、金が払えるまで、同居させることにした。  その日の糊口《ここう》をしのぎかねている市太郎とお伝に、百円の大金が、すぐに出来る筈もなかった。市太郎とお伝の間には、非常の金策が、ひそかにめぐらされた。  八月半ば、お伝は、横浜へおもむいて、小沢伊平が富岡へ帰っている小沢屋支店へ忍び入って、生糸一箇と帯地三十本をぬすみ出して来た。  そして、それを、懇意にしている檜物町の古着屋後藤吉蔵の店へ持ち込んで、抵当にして二百円借りたい、と頼んだ。  吉蔵はしかし、お伝が窮迫《きゅうはく》しているのを知っていたので、品物の出処を怪しんで、貸そうとは言わなかった。  お伝は、品物を預けたまま、その日は、帰って、翌朝また、頼み込んだ。  吉蔵が、ふっと、金を貸す気になったのは、必死に頼むお伝の、膝《ひざ》が割れて、緋色《ひいろ》の湯もじがこぼれ出るのを、一瞥《いちべつ》したとたんであった。 「今晩、六時頃、金六町の信濃屋という蕎麦《そば》屋へ来てもらおうか。金の都合がつくかどうか、一応あたりをあたって、そこへ寄ることにしよう」  吉蔵は、下心をもって、そう言った。  お伝は、宍倉の家へ帰ると、市太郎に、 「金がつくれそうだよ」  と、告げた。 「本当か?」  寝そべっていた市太郎は、はね起きた。 「大丈夫。あたしに、まかせてお置き」  お伝は、にっこりして、胸をたたいてみせた。その時すでに、その胸には、宍倉が日頃使っている剃刀《かみそり》が、ひそめてあった。  お伝が、その蕎麦屋へ行くと、すでに、吉蔵は来ていて、ひどく愛想よく迎えた。  金が出来たことを告げてから、吉蔵は、なにげない口調で、 「今夜は、家へ帰らなくてもいいのだろう、お伝さん?」  と、誘いかけて来た。  お伝は、目を伏せて、 「ええ……。市太郎には、横浜まで金策に行って来る、と申して来ましたから——」  と、こたえた。  二人は、浅草蔵前の旅人宿「丸竹」に行った。  そして、そこで、兇行《きょうこう》が演じられた。  五  明治九年九月十二日の朝野《ちょうや》新聞に掲《かか》げられた「兇行」は、次のようなものである。 『八月二十六日午后七時すぎに、武州大里郡|熊谷《くまがい》新宿、内山仙之助、同人妻マツの由にて、一泊したしと申し参り、すなわち止宿いたさせしところ、同夜は酒食して、十時頃、打臥《うちふ》したりしが、翌二十七日、下女が、客人の寝床|蚊帳《かや》を片づけに行けば、女の言うには、今朝は両人とも物当りにて、少し加減がわるいから、そのままにしておいてくれ、とて朝食も食わず、午后二時頃に、下女が蚊帳を仕舞う時、男は、熟睡のていなりしが、程なく、女のみ次の間にて、食事なし、七時頃、一寸近所へ行って来るが、わたしの亭主は短気者にて、殊に不快《ふかい》ゆえ決してかまわずに、あのまま寝かしておいて下さい、帰りが遅くなるようになれば、蚊帳だけつっておくれ、と言葉そこそこに出てゆきたり。その夜、八時過ぎに下女は、食事などを尋ぬれども、仙之助は何の答もなく、下女は、よく寝る人だと、呟《つぶや》き乍ら、蚊帳をつりおきたるに、二十八日の朝も猶起きず、女も帰り来らず、かたがた不審なれば、仙之助の寝床をあらためて見るに、コハソモ如何《いか》ニ! 男は朱《あけ》に染《そ》みて死し居たるゆえ、主人三四郎は大いに驚き、早速第五方面一署へ訴え出て、検視を受けたるに、咽喉《いんこう》部甲状軟骨右側より気管を切り下し、長サ二寸二分深サ胃管までに達したり。  枕元にマツの遺書あり。その文、左の如し。  書置き  此もの五年いらいあね(姉)をころされ、その上わたくしまでひどふ(非道)のふるまひうけ候はせん方なく候まま、今日までむねんの月日をくらし、只今あねのかたきをうち候也 いまひとたびあねのはか(墓)まいり、その上すみやかに名のり出で候也、けしてにげかくれるひきふ(卑怯)はこれなく候  此旨御たむろへ御とどけ下され候  かわごい(川越)うまれにて  まつ  とありたれば、全くマツ(高橋お伝)の仕業《しわざ》に相違なしと見据えられ、死体は戸長へ仮埋めにすべし、と申し付けられたり』  お伝が捕えられたのは、その翌日二十九日であった。  東京裁判所糾問係の判事補加藤進は、うずたかく積まれた取調べ書類を——高橋お伝を知る十数人の供述を読みあげて、最後に、お伝自身の口供書をひらいた。  すこし読み進むうちに、  ——これは、どういうのだ!  と、加藤進は、首をひねった。  いままで読んだ夥《おびただ》しい取調べ書類と全くちがった事実を述べているのであった。  お伝は、波之助をつれて、出京して程なく、良人の恢復《かいふく》を祈りに琴平町金比羅神社へ参詣《さんけい》したところ、そこで、妙に心ひかれる婦人と出会い、話しあううちに、意外にも、それが異父姉の|かね《ヽヽ》であることを知った。つまり、|かね《ヽヽ》は、母お春が、広瀬半右衛門によって産まされた娘であり、お伝は、高橋勘左衛門の娘であった。  |かね《ヽヽ》は、内田仙之助(即ち後藤吉蔵)の囲い者であった。ところが、仙之助は、お伝を知ると、たちまち、お伝に対して、不義をしかけて来た。お伝は、波之助という良人がある旨を告げて、かたく断った。  数日後、内田仙之助の代理と称する加藤某という男が、訪ねて来て、壜入りの水薬を渡して、癩病に特効がある、と告げたので、お伝は、こころみに、波之助に服用させたところ、たちまち波之助は、胸部から顔へかけて腫れ上り、手当のし様もなく、死んでしまった。  お伝は、一人になると、看病疲れで、胸を患い、床に就く日が多くなった。しかし、姉|かね《ヽヽ》の世話になっていると、内田仙之助の魔手がいつのびて来るのかわからないので、むかし知りあって親切にしてもらった横浜の生糸商人小沢伊平をたよって行き、世話を受けて、療養につとめた。  病気も全快した頃、近所へ入湯に行く途中、良人に特効薬を持って来た加藤某なる男にめぐり会ったので、はげしくなじったところ、返辞もせずに、遁げ出した。お伝は、必死に追いかけて、駿河台《するがだい》の元昌平橋の土手際で、その羽織をつかんだところ、加藤某は、いきなり、懐剣《かいけん》を抜いて、お伝の右腕へ斬りつけておいて、行方をくらましてしまった。  それから数日経って、姉の|かね《ヽヽ》が死去した、という噂《うわさ》が耳に入った。お伝は、いそいで、その妾宅《しょうたく》を訪れたが、もうすでに、人手に渡ってしまっていた。隣家へ立寄ってきいてみると、「おかねさんは、毒《どく》を嚥《の》んで死んでいたのですよ」という。  その前夜、旦那の内田仙之助が来て、|かね《ヽヽ》を凄じい勢いで、打擲《ちょうちゃく》して行った、という。  ——姉さんは、あいつに、波之助と同様に、殺されたのだ!  お伝は、直感した。  ——良人と姉の仇討をしてやらねばならない!  お伝は、ひそかに、|ほぞ《ヽヽ》をかためた。  それから三年後——。  お伝が、偶然、暖簾《のれん》をくぐった古着屋の主人が、後藤吉蔵と名前を変えている内田仙之助であった。  お伝は、姉|かね《ヽヽ》がどうして急死したのか、その原因をくわしくききたい、と吉蔵に迫った。  吉蔵は、教えるから、南八丁堀の蕎麦屋で待っていてくれ、と返辞した。  お伝が、そこで待っていると、吉蔵が現れて、加藤某の居所もわかっているので、加藤も加えて三人で、話しあいたい、と言って、お伝をつれ出して、浅草蔵前片町の旅人宿へつれ込んだのであった。 『……丸竹と称する旅人宿へ立入り、もはや黄昏《たそがれ》にいたり、不審に存じ候えども、吉蔵はただちに二階に上り候あいだ、自分もつづいて上り候ところ、しばらくして、同家雇い女より酒肴《しゅこう》出すべきや、問い合せ候えども、自分に於ては、心得申さぬ旨相こたえ、便所へ参り、立戻り候ところ、酒肴さし出しこれあり、吉蔵よりたびたび勧められ候えども、気分あしきゆえ一切相用い申さず。(略)十二時頃と覚え、吉蔵は、その場に寝臥し居り候につき、先は如何のわけに候か、よほど時間も遅しと相尋ね候ところ、加藤某は必ず参るにつき、いましばらく相待ち申すようにと、申すにつき相待ち居り候。ふと、気分あしく、吐瀉《としゃ》を催し候間、便所へ参りたるところ、ますますはげしく、二階へ匍《は》うようにして立戻りたるに、蚊帳をつり、中に床も二つ取りそろえこれあり、これは如何《いかん》せしや、と吉蔵に相尋ねしに、蚊も多く、気分もあしき様子なれば、蚊帳の中で、しばらくからだをやすめるがよかろう、との答に候。誑《たぶらか》されるやも計りがたく存じ、おそくも自分は帰宅致さず候ては相成ざる旨申し聞け候ところ、是非とも、加藤某の参り候筈、いま少々待ち居り呉れ候様申聞け、追々深更に至り、よぎなく帰宅を相止め、蚊帳の内に打臥し候ところ、吉蔵儀、かれこれ艶言《えんげん》を申し、たわむれかかり候。強《たっ》て相断《あいことわり》置くうちに、明方にも相成り、同人再び酒食して、前同様、たわむれ候えども、大酔《たいすい》の体《てい》ゆえ、程よく断り置くうち、吉蔵は、睡眠し(略)自分は、如何にも同人に誑されたるは遺憾《いかん》に存じ、かれこれ苦慮中、吉蔵儀、不意にたわむれかかり、ついには、自分を組み伏せて、口へ手拭いを当てるやいなや、九寸ばかりの短刀を抜きはなって、自分へ打ちかかる勢いにつき、驚愕《きょうがく》して、その手を打ち払いし際、同人の頸筋《くびすじ》へ刃先当り、自分はそのまま、次の間に逃げ退き候ところ、同人儀、もはやこれまでと言い乍ら、自ら咽喉を切りたるゆえ、大いに驚き、同人|側《そば》に立寄り候ところ、そのまま相果て候につき、如何せんと一時痛心に及び候えども、驚く場合にあらずと、精神を鎮《しず》め、この上は、前条姉の敵《かたき》なる証拠とりそろえ、且国許両親へも一応面会致したる上、その段訴え出べきと存じ、吉蔵の持居りし短刀をもぎとり血を拭い、鞘《さや》に入れ、ならびにかねて見覚えの姉の小柄《こづか》も傍にこれあるにつき、右二た品を懐中にし、吉蔵死体へは夜具を掛け、寝伏せるていにし、同人は姉の敵につき、打果し候趣き一書に認《したた》め傍に差置き候』  六  加藤進は、お伝の口供書を読み了えて、ふうっとひとつ、吐息《といき》した。  ——よくもこんなに、そらぞらしく、大嘘がつけたものだな。 「天性の毒婦というやつだ」  加藤進は、呟いた。 「おい、正木——」  加藤進は、片隅の机で、熱心に法律書を読んでいる書記を呼んだ。  立って来た正木に、加藤進は、 「君は、鈴川判事補が高橋お伝の口供をとった時、書きとったのだったな?」 「はい、そうです」 「どんなおんなだ?」 「はあ——」  正木は、ちょっと当惑した面持になった。 「美人です」 「美人は判っとるが、印象だ。毒婦の妖気でも湛《たた》えていたかね?」 「いえ、そんな女じゃありません。むしろ、嫋々《じょうじょう》とした風情です」 「嫋々とした風情というと?」 「私にも、うまく言えませんが……どうしても毒婦とは見えません」 「君はまだ、女を知らんのだろう?」 「はあ——。まだ童貞であります」 「それじゃ、話にならん」 「しかし——」  正木は、ちょっと、反抗的に肩をそびやかした。 「私にも、天性が悪であるかどうか、判ります。あの女は、天性は悪ではないと思います。出会った男が、癩病患者や悪党だったので、女の弱さで、ずるずると、泥沼にはまり込んだのでないでしょうか」 「きわめて常識的な見かただな」 「あの女が、あわれで、いじらしい証拠があります。持って参ります」  正木は、急いで出て行ったが、ほどなく戻って来た。加藤進の前にさし出されたのは、洟紙《はながみ》に記された血書であった。 「去年暮に、お伝が、牢内で、指を切って、これをしたためて、小使いにたのんで、小川市太郎に渡してくれとたのんだものです」  加藤進はこれを読んでみた。  このたびは、いろいろの事、内はむつかしく候。いのちにかかり候まま、りんさい寺のほうじよう(方丈)に、本町のせんせいと、たかいところから、たんがんして下され。したからではだめだ。たんさくがはいるから。せけんの事をたのむ。宗をふとんさんに、はなして、たかいところの、てづるをたのんで、たんがんして下され。そふでなければ、たすからない。おさげだけでよいから。 「高いところいる人、というのは、寺の坊さんの意味だと思います。寺の坊さんが裁判所にたのんでくれれば、死刑をまぬがれる、という無智は、いじらしいのではないでしょうか」  正木は、真剣な表情で言った。 「莫迦《ばか》を言え。この血書のどこに、人を殺した者の罪の悔《く》いがある? まるで改心して居らんじゃないか。三月も牢に入っていれば、相当の悪人でも、懺悔滅罪《ざんげめつざい》を乞うものだ。この血書の中からは、そういう殊勝《しゅしょう》な心根は、みじんも読みとれん。……高橋お伝は、まさに稀代《きだい》の毒婦だぞ!」  加藤進は、呶鳴《どな》るように言いはなった。  加藤進が、高橋お伝を糾問したのは、その翌日の午後であった。  お伝が机の向うの椅子に就いても、加藤進は、わざと一瞥もくれずに、筆を走らせていた。  加藤進が記しているのは、お伝の口供を、お伝自身が否定する陳述書であった。  一、明治九年八月二十七日、旅人宿「丸竹」方で、後藤吉蔵を殺害した目的は、姉かねの敵であるために、その無念を晴らした、と書置きに残したのは、全くの出鱈目《でたらめ》であること。  一、後藤吉蔵と同枕した際、自分は剃刀《かみそり》を以って、殺害したこと。吉蔵が短刀を以って自殺した証拠はないこと。  一、姉かねなる女は、この世に存在しないこと。  一、後藤吉蔵を殺害したのは、同人の所持金を奪い取るのが目的であったこと。  この陳述書に、お伝に拇印《ぼいん》を捺《お》させれば、糾問係としての任務は済むのであった。  加藤進は、すでに取調べの終っているこの事件について、あらためて、犯人の口から、くりかえして喋《しゃべ》らせる必要をみとめなかったし、お伝と長時間相対するのは、目下の心境としては、いよいよ憂鬱《ゆううつ》になりそうに考えられたのである。 「高橋お伝、これに、拇印を捺《お》すのだ」  冷たい切口上で言ってから、加藤進は、はじめて、視線を、机をへだてて、ひっそりとうなだれている女囚へ向け、陳述書をさし出した。  とたんに——。  加藤進は、はっとなった。  伏せている目蓋《まぶた》から反《そ》っている睫毛《まつげ》の湛《たた》えている寂しい翳が、細く高く通った鼻梁《びりょう》の美しさが、そして、しずかに閉じられている唇のなんともいえぬ魅力のある優しさが——豪放|磊落《らいらく》な判事補の心を、一瞬にして、とらえたのであった。  加藤進自身、長いあいだ探しもとめていた理想の女が、いま、現実に、眼前に出現した——その衝撃が起ったのである。  肌の白さは無類であり、一年余の獄舎ぐらしで、沈んだ冷たい色を加えているために、かえって、女の哀しさを、姿ぜんたいに匂いこぼしているようである。  加藤進は、数秒間、息をのんで、茫然《ぼうぜん》と、お伝の容子《ようす》に、見とれた。  同じ女乍ら、あのきりぎりすのように痩せさらばえていた妻と、このお伝と、なんという雲泥の相違であろう。  お伝が、そっと、顔を擡《もた》げて、眼眸《まなざし》をかえした刹那《せつな》、加藤進は、微かな身顫《みぶる》いさえおぼえた。切長な双眸の、なんと、美しく澄んでいたことか。 「あの……、なんの、お書きつけで、ございましょうか!」  訊ねる声音も、加藤進が、これまできいたことのない美しさであった。  加藤進は、咽喉《のど》の奥を鳴らしてから、われにもあらず狼狽し乍ら、 「これは、つまり……、お前が、真実を述べる、と誓約する——そ、それだ」 「あたしは、もう、これまで、本当のことを、いくども、申上げましたけど——」 「判って居る」  この時、加藤進は、片隅《かたすみ》からの書記の正木の視線を感じた。 「あらためて、誓約してもらうんだ」 「はい」  お伝は、これまで幾度も、そうしたように、右手をさしのべて、朱肉を親指へつけた。  加藤進は、その腕の肌の美しさを瞶《みつめ》乍ら、心臓が烈しく動悸うつのをおぼえた。  この陳述書に、拇印を捺せば、お伝の死刑は、確定するのだ。  加藤進は、陳述書をひきもどして、破りすてたい衝動にかられた。  口供書の方が真実であったことにしてやりたかった。こんな美しい、優しい翳《かげ》を刷《は》いた女が、嘘など吐《つ》けるものであろうか。  加藤進には、信じられなかった。  加藤進は、お伝が拇印を捺すのを眺《なが》め乍ら、胸のうちで、うめいた。  ——この女に殺されるのは、男の本望かも知れぬ。  お伝が室外へつれ去られると、加藤進は、その俤《おもかげ》を目蓋の裏から消すの惜しむように瞑目《めいもく》した。 「先生——」  正木が、声をかけた。 「うむ?」 「先生は、あの女を、やはり、毒婦だと直感なさいますか?」 「う、うむ……。毒婦だ! 毒婦だとも! あんな女が、この世から消えるのは、男性にとって、幸いだ、と思わねばならん」  加藤進は、宙を見据え乍ら、そう言った。  七  高橋お伝の処刑は、明治十二年一月三十一日午前十時、行われた。  刑場は、市ヶ谷監獄の裏手、鬱蒼《うっそう》とした杉林の中にあった。方五十間ばかりの黒塀《くろべい》がめぐらしてある。黒塀の外側に、絞首台がそびえ、その台下が打首場であった。  打首場は、きわめて無造作なつくりで、畳一枚ばかりの広さを一尺ぐらい堀りさげて、漆喰《しっくい》でかためてあった。まわりは頑丈《がんじょう》な木框《きわく》がまわしてあった。  目かくしをした罪人を、入口の狭い框の中に坐らせて、首を突き出させておいて、首斬り浅右衛門が、一太刀で斬り落すのであった。 『高橋|阿伝夜叉譚《おでんやしゃものがたり》』という本によれば——。お伝は、裁判所で死刑の宣告を受けると、おちつきはらって、左の一首をよんだ。   しばらくも、望みなき世にあらんより    渡りいそげや、三途《さんず》の河守《かわもり》  そして、刑場へ曳《ひ》かれて行くお伝は、頬にうすら笑いさえ泛《うか》べていて、しずしずと座に就いて、刀下に首をさしのべた、という。  嘘であった。  辞世の一首は、作者の仮名垣魯文《かながきろぶん》が作ったものである。  お伝は、殆ど自分の力で歩くこともできないほどうちひしがれて、刑場まで、一歩一歩をよろめいた。  のみならず、打首場の木框の中に坐らされるや、突如として、悲鳴をあげて 「おゆるし下さいまし! あたしは、死にとうございませぬ! お慈悲《じひ》を! どうぞ、お慈悲を——」  と、身をもがいて、遁げ出そうとした。獄卒も浅右衛門も、ひどくてこずった。  無理矢理に押し倒して、のたうつままに、狙《ねら》いをつけて一太刀あびせたが、斬りそこねた。  お伝は、名状し難い叫びをほとばしらせて、なおも、もがいた。目かくしがはずれて、血まみれの顔をふりあげた。  その形相は、はじめて、お伝が毒婦の性根をむき出したように、世にももの凄《すご》いものであったそうである。  死体は、第五病院で、解剖された。陰部は、切りとられて、アルコール漬けにされた。陰部の特徴は、左のごとくであった。 『小|陰唇《いんしん》の異常|肥厚《ひこう》及び肥大、陰梃部の発達。膣口、膣内腔の拡大いちじるし』  明治一代女  一  明治二十年六月十一日附、東京日日新聞連載。 『白薩摩《しろさつま》の浴衣《ゆかた》の上に、藍微塵《あいみじん》のお召の袷《あわせ》、黒繻子《くろしゅす》に八反の腹合せ帯を、しどけなく締め、白縮緬《しろちりめん》の湯文字《ゆもじ》ふみしだきて、降りしきる雨に、傘もささず、鮮血《せんけつ》のしたたる出刃包丁を提げたる一人の美人が、大川端に、この頃開きし酔月の門を、ドンドンと叩き、 「オイ爺《ちゃ》んや、はやく開けて」  と、呼ぶ声は、常と変りし娘の声と、老人の専之助は、驚きながら、掻《か》き鍵外《かぎはず》せば、ズッと入る娘のお梅。  その場に右の出刃包丁を抛り出して、 「わたしゃ今、箱屋〔芸妓の三味線持ち〕の峯吉を突き殺して来たよ、人を殺しゃ助からねえ。これから屯署《とんしょ》へ自首するから、あとは宜《よ》いようにたのむよ」  と、言いすてて、飛び出したるは、これなん、この家の主婦、以前は柳橋で秀吉といい、後日新橋で小秀と改め、その後、今の地に引き移りて待合を開業せし、本名花井お梅(二十四)也。  そもそも、この騒動の顛末《てんまつ》は、と聞き糺《ただ》すに、かねて此家に居る箱屋の八杉峯吉(三十四)は、主人のお梅に深く懸想《けそう》し、折節言いよる事もあるを、かかる商売とて、召使う雇人にすら愛敬を損《そこな》わぬが第一なれば、お梅は、痛くも叱り懲《こ》らさず、峯吉は、さてはかなたもたばかり意なきには非ざりけん、されど向うは世にきこえたるふるつわもの、殊には恋の山かけて、もともと深く言い交せし情夫もあれば、一筋《ひとすじ》縄ではウンと言うまじ、この上は威《おど》しにかけて口説き落し、本意を達するが捷径《ちかみち》と思惟《しい》しけん、一昨夜十一時頃、お梅は去り難き用事ありて、大橋際なるある人の家まで赴《おもむ》くを、峯吉は、よき折なりと、ひそかに台所より出刃包丁を持ち出し、跡を追いて、浜町二丁目なる旧細川邸の脇にて、呼び止め、幸い辺りに人もなしと、威《おど》しつ、賺《すか》しつ、アワヤ手ごめにもすべきていなるを、もとより聞かぬ気のお梅なれば、大いに怒り、散散に言い懲《こ》らしてすり抜けんとする様子を見て、峯吉も、もうこれまで斯《か》くても聞かねば命を貰うと、かの出刃包丁を取出し、頭髪とって引戻す。お梅は、取られて一生懸命、男が右の手にしがみついて、力を極《きわ》めて出刃をもぎ取り、また立ちかかるを、ウンと突く。狙いは、闇にて分らねども、キャッと一と声。したたかに手応《てごた》えしたれば、お梅は、さては殺したか、この上は詮方《せんかた》なしと、そのまま、我家へ走り戻りて、右の自首に及びし也』  二  二十年も前の古い新聞の切抜きを、示されて、いまはドサ廻りの浪花節芝居の一座で、三味線をひいているうらぶれた女は、さみしく笑って、語りはじめた。  この新聞記事は、あたしには都合よく書いてありますが、事実は、まるきり、ちがって居ります。いまとなっては、かくすにも、及びますまい。  峯吉が、出刃包丁をかくし持っていて、あたしが、言うことをきかぬとみて、抜き出して、おどした、とございますが、逆なんです。出刃包丁を持っていたのは、あたしの方でした。  あたしは、その出刃包丁で、実の父親の専之助を殺してやろうと、その宵は、はんぶんきちがいになって居りましたのです。  仔細《しさい》を申上げなければなりません。  あたしは、元治元年、下総国《しもうさのくに》の士族の家に生れました。父親の花井専之助は、飲んだくれの能なしで、御一新にわずかばかりのこった不動産も飲みつぶしてしまい、一人娘のあたしをも、日本橋吉川町の岡田常三郎の養女にくれた、というとていさいがよござんすが、実は、売っちまったのです。  十五歳で芸者にされ、十八歳の時自前になりました。つまり、岡田は、あたしを、芸者屋へ、丸抱えに売って、身代金を取ったのでした。  もうおわかりでございましょう。丸抱えの妓が、たった三年間で自前になるなんて、いくらせっせと玉代《ぎょくだい》を稼《かせ》いだところで、できるものじゃございません。恥を申します。あたしは、目っかちだろうとチンバだろうと、あたしを所望なさる客を、えりごのみせずに、毎夜、枕代を稼ぎまくったのでした。  ——自前になりさえすれば!  それを唯一の目的にして、稼ぎまくりました。  そして、とうとう自前になると、養家へはあたしの方から離縁状《りえんじょう》をたたきつけてやりました。  二十二歳の年の暮に、新橋日吉町へ移って名も小秀と改めて、新橋|芸妓《げいぎ》になったあたしは、勝手使いの女中二人に、箱屋まで置き、次の年の秋には、もう柳橋に支店を出して、抱えの妓三人を稼がせる身になって居りました。  その箱屋が、峯吉でした。沢村源之助の附人をして居りましたが、金のことでしくじって、くらしに困って、むかしから顔馴染《かおなじみ》のあたしに泣きついて来たのでした。箱屋になる人間など、道楽者のなれのはてときまって居りますし、素性をくわしく調べれば、ボロが出るにきまっていますから、詮議だてはしないのがならわしでございました。  道楽者のなれのはてですから、目はしがきいて、その場その場の役に立つことは、そこいらのお店者《たなもの》とくらべもなりません。そのかわり、お金のことは、寸時も油断がならないのでございます。月給は一円くれて居りましたが、そんな金で、飲代に足りるわけもなく、あたしの玉代を集めてごまかすことなど、朝飯前でございました。それでも、その日の重宝で、追い出せなかったのが、あたしのあやまちだったのです。  あたしが、日本橋浜町三丁目に、待合茶屋「酔月楼《すいげつろう》」をひらいたのは、明治二十年の五月でございました。  いままでのならわしにしたがって、あたしは、ふかくも考えずに、飲んだくれの実父の専之助を、待合営業人|鑑札《かんさつ》の名義人にいたしました。  その時、父親は、あたしの妹をつれて、乗り込んで参りました。妹といっても、あたしが岡田へ養女にやられたあとに生れた娘で、血はつながっていても、まるで赤の他人でした。それに、同じ屋根の下にくらしてみて、十日も経たないうちに、妹の根性が直しようもないくらい曲っているのを、あたしは、知ってしまったのです。  父親ともまた、十五年もわかれていたのです。親子の情愛が薄くなっているのも、いたしかたがなかったことでした。加えて、父親とあたしは、全く同じ気象であったのも、衝突の原因になりました。お互いに、頑固で、意地っ張りで、一日一度は声を荒立てないと納まらない短気者だったのです。  あたしが、お客の注文の物、お座敷での女中の働きぶりなど、やかましく小言を言っていると、父親は、きまって、口を出して、女だてらに威張《いば》りちらして、喚《わめ》きたててみたところで、人が使えるものか、と申します。そのたびに、あたしも、かっとなって、言いかえして、激しい争いになるのでした。もし、その時、酒が入っていれば、父親は、あたしにとびかかって参りました。  あたしが「出て行けっ!」と叫ぶと、父親は、居直って、 「出て行くのは、お前の方だろう、この酔月楼の名義人は、わしだぞ。明日からは、わしが一切采配をふるうから、出て行きたくなければ、お前は、おとなしく、すっ込んでいろ」  と、呶鳴《どな》りかえしました。  こうした時、父親の肩を持つのが峯吉なのでした。義理にもあたしのために忠義をつくさなければならない立場にある峯吉が、飼い犬でさえ、三日飼われれば三年恩を忘れぬのに、いつの間にやら、あたしを裏切って、父親をまるめ込んで、せっせと、金をごまかしていたのでした。あたしは、峯吉と妹が、いつの間にか、乳くり合うようになっている、と直感して居りました。  こうした憤懣《ふんまん》が、つい、あたしに、深酒をさせるようになりました。  三  やがて、あたしと父親が、一生一代の大立廻りをする時が参りました。柳橋の家を売った金が千五百円あったのですが、これは、勿論、父親にも妹にも内緒にしてありました。それを、峯吉が、こっそり妹に告げて、父親と妹が、せっせと引き出して、使い放題にしていることが、発覚したのです。  あたしは、手あたり次第に、膳部《ぜんぶ》やら火鉢やら、はては仏壇《ぶつだん》の母親の位牌《いはい》まで、父親になげつけ、あたしもまた父親から、卓袱台《ちゃぶだい》をたたきつけられるやら、妹に、湯桶《ゆおけ》で水をあびせられるやらして、家をとび出しました。  三日ばかり、あたしは、もうふるい仲の本阿弥三五郎の家に泊っていてから、「酔月楼」へ、戻って来ました。  戻って来てみると、どうでしたろう、休業の札が掛けてあるじゃございませんか。恰度《ちょうど》、あたしが、家の前に立った時、おとくいのお客様が三十人ばかり、芝居見物の帰りに、ぞろぞろと見えたじゃありませんか。  待合茶屋が、休業札をかける、なんて、きいたこともありません。お盆だろうと、正月元旦だろうと、お客様がおいでになれば、よろこんで、もてなすのが、待合茶屋というものです。 「お梅、いったい、どうしたんだ? 父親でも死んだのか?」  そう訊《たず》ねられて、あたしは、顔から火の出る思いをいたしました。  肉親が亡くなった時だけ、待合茶屋は、忌中《きちゅう》の貼紙の代りに、休業札を出すのでした。 「この札を出したのは、あたしじゃありません。死んでもらいたい父親なんですよ」  そうこたえるあたしの形相は、ただならぬものだったそうでございます。  ——父親を殺してやろう!  あたしは、その時、|ほぞ《ヽヽ》をきめたのでございます。  あたしは、そのまま家へは入らずに、米沢町の船宿へ行って、一晩泊り、次の日は、遊芸師匠の小川屋へ立ち寄って、大阪へ行くから、本阿弥を呼んでもらえないか、とたのみました。あいにく、本阿弥が留守だったので、別れの手紙を書いて、十五円入れた紙入れを添えておいて、小川屋を出たのでした。  表通りに出る角に、古鉄屋があったので、それで、袂《たもと》で顔を半分かくして、出刃を買いました。  もし、その日、父親が、酔月楼にいたなら、あたしは、実の親殺しの大罪を犯して居りました。死刑はまぬがれなかったことでございます。  幸か不幸か、父親の専之助は、妹とつれ立って、どこかへ出かけて留守していたのです。  持って行きようのない憤懣を胸に抱いて、柳橋の方へ、トボトボ歩きつづけました。  どこへ行くあてもないままに、橋を渡って行こうとした時、顔見知りの車夫が、橋袂で辻待ちしていて、声をかけて来たのです。  あたしが、空返辞をして行きすぎようとしますと、車夫は、 「そこの新道の居酒屋で、峯さんが一杯やっていますぜ」  と、告げました。  あたしは、ふと、峯吉をつかまえて、休業札を出したいきさつを訊《き》こうと思って、踵《きびす》をまわしました。  その新道へ入ろうとすると、恰度峯吉がその居酒屋から、出て来るところでした。  そうです、東京重罪裁判所で、裁判長さんから、 「これからの峯吉殺害のくだりは、よく心をおちつれ、まちがいのないように申立てよ」  と注意されたものでした。  聞き手は、その当時の時事新報の切抜きを、出してみせた。  公判の模様は、次のようなものであった。 『……柳橋の方に向いて、およそ二十分間も徘徊《はいかい》して居ると、峯吉が、柳橋の方より帰り来るに邂逅《かいこう》し、自分も言葉をかけ、彼も、お神さんですか、と申したり。自分が少々話すことあり、と申すと、彼は、ちょっと家に帰り、品物を置き来りしかば、相ともに横丁に入り、それより、家の事を聞きしに、自分はどうぞ家に帰り度きにつき、峯吉に、そのことを取扱わす心なりし。峯吉が申すには、父がなかなか立腹して居れば、急に帰るわけにも参り難《がた》ければ、ともかく懇意の者の家に行き居れ、と申し、あまり無礼なり、と腹立たしく、且つ恋慕《れんぼ》のことを申しかけ、その意に従わば、帰宅し得るよう取扱わん、との意味あいのごとく思われしが、その懇意の者の家に行くのはイヤだと申したり。何分、この場合のことは夢中にて能《よ》く覚えず、たしかに峯吉に自分の右肩を突かれて、打転びし際、右手にて逆に出刃包丁を執《と》り、打つ手を払いたり。一度突きたるまま、自分は駆け出せしが、峯吉も歩き行きて、一方に逃げ出したる様覚えたり。自分は家に帰ると、父は帳場にありしが、物も言えざれば手真似して、その事を話し、警察署に申し出でんとするを、父は自分を抱きとめ、父に背負われ、浜町三丁目なる父の家に到ると、母も帰り来たれり。それより父と共に、久松警察署の手前に到り、父に別れて自首したり』  女は、流し読みしてから、笑った。それから、しばらく、遠いその日のことを思い泛べる表情になっていたが、急に、いまいましげに、 「峯吉なんぞ、殺したって、なんにもなりゃしなかったのです。殺してやらなけりゃならなかったのは、親爺だったのです」  と、吐き出した。  裁判なんて、罪人が正直なことを、白状するものでしょうかねえ。金輪際《こんりんざい》、本当のことなんて、言うものじゃありませんよ。  峯吉は、あたしの形相を見ると、もうふるえあがって、ろくに口さえきけやしなかったのです。  あたしは、いきなり、 「峯、あたしを、裏切ったね!」  と、きめつけてやったのです。  峯吉が、あわてて、弁解しようとするのを、 「ききたくないよ!」  と斬りつけるように押えつけておいて、峯吉と妹が乳くり合っていること、父親をまるめ込んで、せっせと、掛け金をごまかしていること、父親と妹が共謀して、柳橋の家を売った金を着服したのを、知ってい乍ら、あたしにはそ知らぬふりをして、妹からせびり取っていたこと、などをならべたてて、責めつけてやりました。  峯吉は、とうとう、土下座して、 「かんにんしておくんなさい。おかみさん、あっしが、わるかった。……裏切るなんて、そんな料簡は、毛頭みじんもありゃしなかったんだ。あっしは、おかみさんに、惚れているんです。おかみさんのためなら、どんなことでもするつもりで、酔月へ来たんですぜ。ところが、おかみさんは、あっしの気持を、さっぱり、汲んじゃくれないものだから、つい、自棄《やけ》を起して……」 「うるさい! つべこべ、言訳したって、きく耳はないよ。休業札を出したのは、どういうわけだい? 泥を吐きな!」  逆上していたあたしは、峯吉の肩を蹴とばしてやりました。  峯吉も、男でした。足蹴にされては、かっとならずにはいられなかったのです。 「なにをしやがる!」  血相かえて、立ち上りました。  あたしは、本性をむき出した峯吉の態度を見ると、もう前後の見境もなく、出刃をふところから抜きとって、ふりかぶったのでした。 「お前のようなうじ虫は、消えちまえ!」  そんな罵《ののし》りを口走ったようでした。  峯吉は、悲鳴をあげて、逃げ出そうとしました。そのぶざまな恰好《かっこう》が、あたしに、なんていったらいいのか、うじ虫を殺してやる快感のようなものを駆らせて、滅茶滅茶に突きかけたのでした。  四  裁判言渡書  東京府京橋区日吉町九番地平民  花井梅(二十四年二ヶ月)  右花井梅に対する謀殺《ぼうさつ》被告事件、検察官の公訴により、審問《しんもん》を遂ぐる処、被告梅は、明治二十年六月八日、浜町二丁目の横町に於て、峯吉事八杉峯三郎を、出刃包丁を以て、右背第十一脇骨下縁を刺し、死亡せしめたること、予審判事検証調書、医師の屍体検断書、長谷川すず、河野実成、石崎あさ、同とく、小川重、川村伝衛、巣合|縁《ゆかり》、岩森伊三郎、松田ふじ等の証言、参考人本阿弥三五郎、花井専之助の陳述、犯罪の用に供したる出刃包丁、押収したる物品、並に被告が予審及び当法廷に於ての陳述等に徴し、その証憑《しょうひょう》充分なりとす、之を法律に照すに、被告の所為は、刑法第二百九十二条、予め謀りて人を殺したる者は、謀殺の罪と為し、死刑に処すとあるに該当《がいとう》す。依て死刑に処すべきところ、厚諒すべき情状あるを以て、同法第八十九条、第九十条に照し、本刑に一等を酌減《しゃくげん》し、被告梅を無期徒刑に処する者なり。但し、犯罪の用に供したる出刃包丁は、刑法第四十三条に依り没収し、押収したる衣類外数品は、治罪法第三百八条に依り還附す。  明治二十年十一月二十一日  於東京重罪裁判所 検察官検事  岩田武儀立会宣告す。   裁判長 控訴院評定官 小松 直吉   陪席  同      永井岩之丞   陪席  同      古宇田義鼎  五  そう——あたしが、入れられたのは、市ヶ谷監獄でした。まだ、その頃は、伝馬町の牢屋と同じように、牢名主がいて、そりゃ威張りかえって、新入りをいじめたものでした。  あたしが入った時の牢名主は、女警部お勝——支倉《はせくら》かつ、というおっかない小母さんでした。  女囚二人を、家来にして、左右にはべらせて、そりゃもう、大変なご威光《いこう》でした。 「お前が、箱屋殺しの芸妓かい。やけに、ツンとすまして、気丈夫そうだが、娑婆《しゃば》とここは、ちっとばかり作法がちがうからね。新入りは新入りらしゅう、隅っこでおとなしゅうしていてもらおうぜ」  そんなあんばいでした。  入ったとたんに、ひどい折檻《せっかん》をうけて、グウの出ないようにされるのがならわしでございましたが、あたしが、それをまぬがれたのは、「土産《みやげ》」のおかげでした。 「土産」というのは、かくして持ち込んだお金か、もしくは、なにか芸当をしてみせることでした。  あたしは、≪よしこの≫をうたってみせたのでした。  どんなあばずれでも、男に惚れたなつかしい思い出はあるものなんです。あたしの≪よしこの≫が、その思い出に耽《ふけ》らせるのに役だったのでした。  おかげで、最初の夜から、布団にくるまって寝ることが、許されました。新入りは、三夜ばかりは、布団も与えられないのでした。  布団は、三布《みの》で、それを三つに折って、ぐるぐると柏《かしわ》にして寝るのでした。上には、西国巡礼の笈摺《おいずる》のように、第何番なにがしの用という文句や、そのほかいろいろなことが書いてありました。  五十人が一室に枕合せに横になるのですから、まるで≪めざし≫の列でした。枕が四角でしたから、ちょうど、四角な柱を二本ならべたのへ、両側から頭をならべたようなあんばいでございましたね。  勿論《もちろん》、上座が牢名主で、これは、ちゃんと布団を二枚、敷いて、掛けて、やすんで居ります。その両側から牢の古い者順に、横になるのでした。  いちばん下座は、厠《かわや》のわきですから、新入りは、とても我慢できない辛さでした。臭いのはどうやら馴れても、真夜中に、次から次に立って来て、思いきり音をたてるのだから、たまったものではありません。そして、おわると、「新入り、掃除《そうじ》だよ」と来るのでした。  あたしは、はじめは、洗濯工になり、ついて、練玉工になり、しまいに、機械工にまわされました。  年代が古くなり、熟練工になれば、ご飯もたっぷり頂けますが、新入りの頃は、ひどい差別待遇をされます。なにしろ、看守は、知らぬ顔なので、炊事場ではたらいている女囚が、手加減をするのでした。  並のご飯は、ブリキの小さな金盥《かなだらい》ぐらいですが、新入りとか、私刑《リンチ》で減食された者は、お茶碗の大きさくらいに切った竹筒の底へ、ちょっぴり容れたご飯に、お香の物が二切でした。  なんといっても、辛いのは、ついうっかり、看守に告げたことが露見したりした場合の、おそろしい私刑でした。ハンカチで包んだ石で、からだ中をぶたれたり、作業中に頭へ鋏を突き刺されたりいたします。  それから、牢名主から、看守に、 「手がつけられぬ奴だから、暗室へ寝かせてやっておくれ」  と、依頼されるおそろしさでした。  むかし、芸妓の下地っ子には、寒稽古《かんげいこ》というものがございました。あけっぱなした縁側へ出て、膝っ小僧をむき出して、筑波おろしのビュウビュウ吹きつける中で、鼓や太鼓や三味線の稽古をいたします。一通りの辛さではありませんでした。太鼓を打つと、指の先が割れてしまいます。三味線を引く者には、茶碗の糸尻をたたかせてするものですから、たまりません。そんな傷ついた手を、水の中へ突き込んで、きたえるのでした。  暗室へ入れられると、その下地っ子時代の辛さをあじわわされます。何日も、光のささない暗闇の中で、布団も与えられずに、すごさなければならないのです。気が狂わないのが、ふしぎなくらいでした。その寒さと来たら、もうこごえ死ぬばかりで、睡るどころじゃなく、羽目にからだをぶちつけて、暖をとるしかすべがないのでした。  さし入れられる食事も、手掴《てづか》みで、おいしいもまずいもあったものではないのです。  そんな、暗室に、わたしは、幾度も、抛り込まれました。  暗室のほかのおそろしい私刑は、「佐倉宗五郎」でした。恰度お芝居の宗五郎のように、両手を後ろ手にしばりあげられ、ぶらんこにつりさげられるのです。足は爪さき立てて、板の間に、つくかつかぬくらいにされて、あちらこちらをくすぐられるのです。  この責苦のために、気ちがいのなった女囚もありました。  あたしは、十五年を監獄で送りましたが、思い出しても、ぞっとするのは、雪責めでした。これは、ほんとに、血の涙の苦しさでございました。  明治二十六年か七年の真冬でした。牢名主にさからったために、雪掃除を一人でやらされました。  寒い北国の雪なら粉になっているし、いっそ、扱いいいのでしょうが、東京の雪はご存じのように、びしょびしょになって、そりゃ厄介です。屋根と庭の雪を煉瓦《れんが》の溝へ、せっせと抛り込んで、やっと一息ついた時、看守がやって来て、 「莫迦野郎! この溝は、雪を入れるためのものじゃねえぞ。雪を入れると、煉瓦が割れるじゃねえか。みんなかき出せ」  と、呶鳴りつけました。  あたしは、思わず、かっとなって、シャベルをふりあげたものでした。  看守に、顔中がはれあがるくらい、なぐられた挙句、溝の中へ突き落とされました。  溝の深さは、あたしが立って、首がのぞくくらいでした。その中の雪を、すくって、地面へ、出すのは、地獄の辛さでした。三日かかってやっと、雪を地上に盛りあげて、煉瓦をきれいに磨きおわった時、あたしの目は、半潰れになり、それから十日間、死んだように高熱を出して、倒れて居りました。  下肥汲《しもごえく》みも、辛い仕事のひとつでした。この下肥汲みは、減食の罰を受けた者が、三十日間やるのでした。まだ新入りであった頃、あたしは、牢名主のお勝から、生意気だ、といって、柄杓《ひしゃく》に汲んだ下肥を、あたまから、ぶちかけられたこともございました。  女囚の愉《たの》しみといえば、ご想像がつきますでしょう。食事と入浴です。  朝は味噌汁、昼は時の物——夏は馬鈴薯《ばれいしょ》に豆、冬は薩摩芋に切干、荒布《あらめ》に大根煮しめ、それから蒟蒻《こんにゃく》。晩は味噌汁。その味噌汁も、はこばれた時は、冷たくなって居ります。  そんな食事が、待ち遠しくて、はこばれて来ると、腹の虫が鳴くのでした。十日に一度ぐらい、夏は鯨汁《くじらじる》、冬は馬肉が出されましたが、それがこの上もない愉しみになって、明日あたりは、出るのじゃないかしら、と噂しあって、口の中の唾をチュッとのみ込むのでしたから、哀れなものでした。  正月の元旦には、餅が二切と数の子が出ました。  入浴は、一週間に一度でした。新入りは、いちばんあとなので、湯は、芋を洗ったあとのドロドロに濁ったぬるい湯でした。  年代の古い者たちは、十五人一緒に、裸になって、号令で一斉にとび込むのでした。それこそ、狭い浴槽《よくそう》へ、漬けものみたいに、自分を押し込むのですから、大変な喧嘩《けんか》です。女というものではありませんでした。気の狂ったけだものでした。  まったく——監獄の中は、娑婆の人たちが想像もできない世界でした。  罰をくらうにしたって、なんでもないことで、くらうのでした。  アクビをしたといっては減食、役人をちょっと睨んだといっては減食——食事がいちばん愉しみなのでしたから。これは辛い罰でした。  そして、牢名主の私刑で、布団でむし殺された、ということも嘘ではありません。  お話にならない生地獄でした。  看守が、やる罰に、窄衣《さくい》というのがありました。素裸《すっぱだか》にしておいて、乳房の上から革で、ぎゅっと胸を締めつけるのです。そうしておいて、囚衣をきせておいて、知らん顔をして居るのです。むかしは、棒鎖というのがあったそうで、棒鎖にかけられると、男囚でも一週間と経たないうちに、大小便がたれ流しになったと申します。窄衣も同じでした。窃盗《せっとう》で入って来た十八になる娘が、窄衣にかけられましたが、二日めから、大小便をたれ流しはじめ、とうとう舌を噛んでしまいました。  どんな女が、入って来るか、と仰言《おっしゃ》るのですか。淫売が一番多く、次が、酌婦《しゃくふ》でした。前借金をふみ倒したとか、窃盗とか——。  男のために苦労して、罪を犯した女が、どんなに多いか——あたしは、イヤというほど、きかされてきました。  それで、人殺しは、あたしぐらいのものでした。男にだまされて放火したとか、本妻に傷を負わせたとか——そんな女は、監獄に入れられた女たちの中では、おとなしい、可哀そうな囚人でした。そして、そういう囚人が、女警部お勝だとか蝮《まむし》お政だとか、生れついてのあばずれに、泣く泣く、夜伽《よとぎ》をさせられるのでした。女が女に強いる欲情の凄じさは、言葉にも筆にもなるものではありません。  牢名主ともなると、四人も五人もの女囚たちに、からだ中をなめさせて、身もだえして、呻《うめ》きたてるのでした。  いえ——あたしは、牢名主にもならなかったし、その方のあさましい振舞いだけはしませんでした。ほんとです。嘘じゃありません。  さ——もう、これくらいで、むかし話は、かんべんして下さいな。それにもう、出番ですから……。  女は、聞き手を、そこに坐らせておいて、支度にかかった。皺《しわ》の寄《よ》った顔に、厚化粧をして、よごれた衣裳をつけると、とにもかくにも、芸妓姿になった。 「じゃ——」  女は、会釈しておいて、舞台へ出て行った。  出しものは、 『明治一代女・酔月楼女将花井お梅の箱屋峯吉殺し』  それであった。  解説  戦後の時代小説の代表的な書き手だった柴田錬三郎は、虚構のおもしろさを一貫して追究した人だけに、多くのすぐれた伝奇小説をうみ出した。約二十年にわたって書きつがれた「眠狂四郎」シリーズをはじめ、狂四郎と共通するニヒル剣士の活躍する「剣は知っていた」「孤剣は折れず」「剣と旗と城」などのほかに、剣客や忍者、隠密、あるいは同心や岡っ引きなどまで、多彩な人物の登場する伝奇性ゆたかな作品が数多くある。  その中には虚構のヒーローをあつかったものも少なくないが、実在や伝説の人物や事件をとり入れながら、それに自由な空想を加え、興味ぶかい物語りに仕上げる場合も多く、そこにもまたたっぷりとロマンの味つけがなされていた。講談で知られた寛永御前試合を素材とした「赤い影法師」では、平家の秘宝や忍者の争いがそれにからまっているし、「男は度胸」では天一坊の事件をあつかい、晩年の「曲者時代」では田沼意次の政治に光をあて、絶筆となった「復讐四十七士」では、元禄赤穂事件をとりあげているが、いずれもおどろくほどの腕の冴えがみられるのだ。 「赤い影法師」は荒唐無稽なものをふくみながら、伝奇小説の傑作といわれたが、その系譜に属するのは、昭和三十七年から四十三年へかけて書きついだ〈柴錬立川文庫〉である。 「立川文庫」はいうまでもなく、明治の末年から大正十年代へかけて、大阪の立川文明堂から出版され、関西を中心に関東地方から九州にいたるひろい範囲で少年たちに愛読されたポケット本だ。「水戸黄門」や「大久保彦左衛門」「真田幸村」など、実録本や講談でおなじみの英雄豪傑を主人公にした武勇伝、剣客物語、敵討の話などが約二百点近くあるが、最大の人気をよんだのは「猿飛佐助」であろう。  これは速記講談から書き講談へ移行する過度期に生まれ、大衆文学の先駆的な役割をはたしたが、その時代に少年期を送った人々にはふかい印象を残し、歴史人物にたいする見方の上でも、今なおつよい影響を残している。「立川文庫」によってうみ出された虚構の英雄、猿飛佐助などは、大衆のイメージの中に定着されてしまったし、徳川家康を狸おやじとみるみかたも、この文庫によってつくられた。 「立川文庫」にふくまれた物語の奇想天外な発想は、当時の少年読者たちの夢を培《つちか》い、その記憶に刻まれただけでなく、立川文庫的な内容などというふうに、大衆文学のひとつの型をしめすようにさえなった。大正六年に岡山県で生まれた柴田錬三郎は、「立川文庫」を愛読したよりやや後の世代に属するが、幼い頃から空想にふけり、冒険小説などを友達に語ってみせたりしたそうだから、実際に読んだかどうかは別として、その魅力を知る一人だったといえよう。彼が一連のシリーズに〈柴錬立川文庫〉と題したのは、伝奇小説の書き手として、新しい「立川文庫」を創造しようとする意欲のあらわれだったと思われる。 〈柴錬立川文庫〉には「猿飛佐助」「忍者からす」「毒婦伝奇」「裏返し忠臣蔵」「日本男子物語」などがふくまれている。「猿飛佐助」には表題作をはじめ。霧隠才蔵や三好清海入道、岩見重太郎、真田十勇士、後藤又兵衛、木村重成など、「立川文庫」でも知られた人々のほかに、百地三太夫、名古屋山三郎、竹中半兵衛、佐々木小次郎、山田長政、伊藤一刀斎などにもふれ、それらをすべて柴錬流の解釈で描いたわけだが、こうしたおなじみの人物たちについて書き終えた後、さらに範囲をひろげ。種々なテーマで連作の筆をとった。 「忍者からす」は戦国裏面史に暗躍した忍者組織、熊野|神鴉《みからす》党が、その後も徳川三百年の歴史の影で奇怪な動きをつづけるという構想にたち、さまざまな人物をそれと関連づけて描いた作品である。これには一休禅師、山中鹿之助、塚原卜伝、丸目蔵人、由井正雪、幡随院長兵衛、蜀山人、国定忠治など江戸時代の人々がとりあげられている。 「裏返し忠臣蔵」は、吉良上野介、浅野内匠頭、大石内蔵助以下、赤穂事件の登場人物や周辺の人物、あるいは事件の経過にそれぞれ独自のアングルから光をあて、堀部安兵衛の許婚者だったと称する妙海尼にまでふれている。また「日本男子物語」では、等々呂木神仙老人の語る史譚という形で、幕末維新における義勇物語をあつかっていた。 「毒婦伝奇」はこの〈柴錬立川文庫〉の第三部にあたり、毒婦、悪女といわれた女性たちを描いたものだ。もっとも必ずしも悪女ばかりではなく、美貌や勇気や才能で世間の目をそばたてた女性もふくまれており、それらはいわば世間なみでない女として作者の興味をそそったのであろうか。しかし他の作品の場合と同じく、これらの女性たちの事蹟についても、一般の伝承とはことなる独自の解釈を行ったり、その数奇な運命にたいして作者なりの視線を注いで、それぞれの像を描き出している。「四谷怪談・お岩」のように、かなり合理的なみかたをしているものもあり、彼女たちの≪悪≫を批判する立場に立っていない。  むしろ彼女たちの周辺に、伝奇小説の要素となるような人間関係のあやを見出し、男女の肉体的、心理的ふれあいが、人間社会にさまざまな波瀾をおこすありさまを描き出しているのだ。それは彼の他の作品世界とも通じるものであり、ひとつひとつは短篇でありながら、多彩なロマンを蔵している点に特長がある。「猿飛佐助」「忍者からす」「裏返し忠臣蔵」の三篇は、主に男たちの物語だが、その中に「毒婦伝奇」を加えたことで、〈柴錬立川文庫〉もより色彩ゆたかなものになったといえよう。  柴田錬三郎は伝奇小説の骨法をふまえて、これらの作品を描いてはいるが、その中にたしかな人間認識の眼があり、人物造形の筆も的確であることが、「毒婦伝奇」に収められた諸作を読んでもよくわかる。奔放な空想に彩られた彼の長篇の原型がここにもみられるのだ。  彼にはそうした構想力ゆたかな伝奇長篇の一方で、「生きざま」「生死の門」などのように、比較的シリアスな歴史ものを書いており、「毒婦伝奇」は手法からいえば、その両者の接点をしめすものとして、読むこともできるが、それを≪伝奇≫と名づけたところに、柴田錬三郎の創作の特質がみられるのではなかろうか。(尾崎秀樹) ◆毒婦伝奇◆ 著者 柴田錬三郎 二〇〇六年十二月十五日